【思考-Pt.18】才能について
「才能」とはなんなのか、今日はそんなことについて考えてみたい。
自分は才能という物を「効率の良さ」と定義している。
簡単に言うと一般的に10時間かけて完成させるものを1時間で完成させられる人は才能を持っている。
このように考えている。
才能というのは、何かを行う時に取り扱われることが多い。
スポーツが最もわかりやすい例の一つだろう。
あいつは才能があるからプロになれた。
このように何かをする、成し遂げる、完成させるにあたって才能という物があると達成しやすい。そんなイメージはがあると思う。
ここで一番おそらく考えるのが、才能が必要なのか、そして才能が自分にあるのかどうか。
才能が自分にある場合は簡単でやれば良い。一番難しいのが、自分に無いと考えた時にどうするかである。
ここで自分の考えを述べたい。
まず自分は才能という物は何かをするにあたって、その行動を制限する要因にはならないと考えている。
まず、最初に述べた通り、才能とはいかに効率性を持っているかだと考えている。
個人的にこの世に達成不可能な事は無いと考えている。
達成可能な確率はどんなものでも存在すると考えている。
勿論それでも達成できない人がいて、その人が才能がなかったからではないかと思うかもしれないが、それは間違いではないが、さほど重要な事ではない。
全て達成可能と話したが、なぜそれでも達成できないかというと、時間的制約があるからである。
人間それを永遠とやり続けられれば必ず目標の場所に到達し、達成できると考えている。ただし、我々人間はいつか死んでしまう。
つまりどんなことも「生きている間」という時間的制約の下達成しなければならない。
本来200年練習し続ければできることでも、それは我々の中ではできない物になってしまう。
ここで才能が出てくる。
才能というのは効率性なので、これを持っているとより早い時間での達成が可能になるので、生きている間という時間的制約がの中でも達成確率は上がる。
つまりやりたいことを叶える、達成するのは限られた時間の中でそこに到達できるかどうかという問題で、そのために我々は学習・練習を行いそこに近づこうとする。目標が高ければ高いほどストイックにならざる負えないのは、時間的制約が存在するからである。道程が長ければ長いほど時間がかかるわけだが、我々はそれを制限時間内に到達しなければならい。そういう意味で才能はより高性能なエンジンとも言うことができる。
しかし、才能の難しい所は初めからわからないところである。
この車のエンジンが高性能かどうかは残念ながらこの話においては分からない。乗ってみて初めて分かるわけである。
だからこそ、才能を考慮してその道を走ってみるかどうか悩むのはもったいないことである。結局その答えは走ってみなければわからない。
だからまずは走ってみる、そうすれば自分のエンジンの性能が分かってくる。
そうしたら、その性能の中でいかにしたら制限時間内でゴールにたどり着けるか、それを考え行動することが「夢を追う」ということである。一日10時間運転した方がより進めるのか、それとも集中力が切れると今く走れないから、休みを入れて走るのか、途中の分岐はどちらを選ぶのか、直感なのか、途中で寄り道をして地図を拾うのか、進み方は人それぞれである。
制限時間内にゴールにたどり着く
そのためにありとあらゆる努力をする。
才能はそれにプラスαで役に立つくらいのものだと思っている。乗った車がたまたま高性能で少し早い。そんなもんだと思っている。
才能があろうとなかろうが時間的制約がある以上、効率性の追求という所は変わらない。そして時間的制約が無ければ全ての事は達成可能なものである。だからこそ、才能に振り回されるのはより良い選択を選んでいるようで、実は何も選択できていない状況だと思う。
大事なのは才能があるのか、自分がどういう車に乗っているのか、ゴールはどこなのか、時間的制約はどれだけなのか。
この事から、これらを把握してゴールに向かって最善を尽くすことであると考えている。
才能のあるなしはさほど重要な事ではないと考えている。
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