キッチンに立つ
一人暮らしを始めて、ありがたいことに祖父母から、そして母からレトルトや冷凍食品が度々送られてくる。
本当に感謝しているということを大前提に、僕はそのほとんどに手をつけられておらず、すでに冷凍庫がパンパンになっている。
常温保存するレトルトももう置き場がなくなりそうだ。
自分で作ってしまう。「しまう」というか、自分で作ることに喜びを感じたり、それがストレスの発散になっている。
僕にとって、一人暮らしでの食事はストレス発散にはならない。それがどれだけ美味しくても、いっときの満足感は得られるだろうが、それに溜め込んだストレスを発散する力は残念ながらない。
一人暮らしの食事は孤独で、だれかと味を共有することも、食事を囲んで今日1日の出来事を話すことはないからだ。どれだけおいしい無印のレトルトチキンカレーも3分でレンチンが終わり、10分で食べ終わる。その間、無言で。脳死で。
誰かと食事をする醍醐味は何を食べるかより、それをダシに何を話すかで、味は、料理は、それをアシストするものでしかないのだと感じた。
一方、料理を「する」ということは、自分で何を作るか考え、目の前の食材をいちから料理へと昇華させていくことである。食材をどのくらいの大きさで刻むか考えること、包丁がまな板に当たる音、焼ける音、「これを追加したら美味しくなるかもな」と考えること、全てが楽しい。というか、今日何を作ろうかと考えることから楽しい。じぶんだけの創作物がこの世に生まれていく瞬間がとてつもなく好きなのだと気がついた。
そして、自然と嫌なことを忘れ没頭している。1日のストレスはいつの間にか目の前のコンソメスープに浸った食材と共に煮込まれてほろほろになっている。
作った料理がおいしくないこともよくある。これだけ料理について書いても、特段料理が得意というわけではないからだ。というか、レトルトの方が美味しいことの方が多いかもしれない。でも、レトルトで済ました日の食事と、料理をした日の食事とでは1日の満足感が大きく違う。
だから、できるだけキッチンに立って料理をし続けたいと思った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?