悪と良識
…価値と知識
ここ最近、オリンピック周りの話題を中心に、”良識を欠く言動”と批判される話題を見かけます。ですがそこに用いられる”良識”という言葉は、その意味があまり明確では無いように感じます。
本来個々の事案に関してはそれぞれの状況と論点があり、十把一絡げに論じることはできないだろうと思います。それらを大括りに扱う良識という言葉の意味と役割はなんなのでしょうか。
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手始めにネットで検索してみると、良識とはフランス語の”bon-sens”の訳語で、物事を正しく判断する能力、真と偽を区別する能力との説明がほとんどで、その出典にはデカルトの”方法序説”が多く引かれています。
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良識(bon sens)はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである。というのも、だれも良識なら十分身に具わっていると思っているので、他のことでは何でも気難しい人たちでさえ、良識については、自分が今持っている以上を望まないのが普通だからだ。この点でみんなが思い違いをしているとは思えない。むしろ、それが立証しているのは、正しく判断し、真と偽を区別する能力、これこそ、本来良識とか理性と呼ばれているものだが、そういう能力がすべての人に生まれつき具わっていることだ。だから、わたしたちの意見が分かれるのは、ある人が他人よりも理性があるということによるのではなく、ただ、わたしたちが思考を異なる道筋で導き、同一のことを考察してはいないことから生じるのである。というのも、よい精神を持っているだけでは十分でなく、大切なのは、それをよく用いることだからだ。
『方法序説』デカルト 1637
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hinaoka/class/philosophy201401/text.pdf
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このことから推論すると、良識とは大枠には”価値観を伴う知識”と言えるのかもしれません。
何が正しく、何が美しく、何が真で、何が善であり、そして何が悪で、偽で、醜であるかは社会や時代によって差異があります。
それらは光の速度や東京タワーの高さなどの”知識”とは異なり、それぞれの価値観に依った条件付きで成立する、状況的で限定的な知識だろうと思います。
しかしそれをただの個人や少数の感覚や意見とはせず、状況的ではあれど知識として扱うのは、特定の社会や国家、村やサークル、家庭など、その状況を限定さえすれば、その範囲内においては”知識”として機能するからだろうと思います。
…悪と良識
ではこの場所(空間)と時代(時間)を条件に持つ価値を伴う知識としての”良識”の機能と役割はなんでしょうか。
方法序説の説明をそのままに解釈すれば、良識とは善を善と知り、悪を悪と知ることです。そしてそれらは状況的な価値観であるために良識という言葉が用いられる際は、その前提として特定の場所と時間が想定されています。
より丁寧に言えば、良識とは悪を行わないことでも、許容しないことでも、発言しないことでも、考えないことでもなく、その場所と時代における悪を悪と知ることです。それは善に関しても、正しさに関しても、偽に関しても同様のことが言えます。
この見方では、悪を考え、悪を話し、悪を許容し、悪を行う者であっても、悪を悪と知っているならその人は良識を持ちます。一方で悪を考えず、悪を話さず、悪を許容せず、悪を行わない者であっても、悪が何かを知らなければその人は良識があるとは言えません。
前者の例であれば社会や組織の中で強要され止むを得ず悪を悪と知りながら行う者が挙げられ、後者の例であれば赤ん坊や子供が当てはまるだろうと思います。
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良識を持つことは個人の行動選択においては決定的な要因とはならず、それよりも優先される諸事情が多くあります。それは社会や組織の中の個人は比較的に立場の弱い存在の為です。
属する組織の意向でそれが悪や偽と知りながらも、その意向を拒否できない状況が個人にはあります。それを拒否することが自分の立場や、経歴、人間関係など大切なものを失うことを意味したり、あるいはそもそも拒否する選択肢さえない状況もありえます。
そのような個人が悪を悪と知りながら行い、許容し、発言し、考えた時でも、その個人がそれに伴う蟠り(わだかまり)と悔いの念を持ち続ける限りは、その個人は良識を保持すると言えます。しかし自身の良心に対する借りとも言えるその蟠りと悔いの呵責から逃れる為に、強いられた悪は仕方のないことであり、それにはそれの正義があるのだと、悪を悪でないと自らを説得してその呵責から自由になるならば、その時その個人は良識を捨てることになるのだろうと思います。
…機能的良識
そのような個人の行動選択で優先的な役割を果たさない”良識”を持つ意義はあるのでしょうか。良識とは、なんらかの事情でその良識に反して悪を担った個人をただ咎めるだけのものなのでしょうか。
確かに、個々人の規模で見れば良識の有無はその個別具体の状況に左右される行動に決定的な役割を持つとは言えません。ですが、人間社会の集団的行動においては話が変わるかもしれません。
個々の事案において個人の良識は、その行動選択に優先的な役割は果たしませんが、それを個別の事案を超えて俯瞰的、長期的、集団的な行動として見ると、良識はそれが促す僅かな良識的行動選択に加え、多くの非良識的行動選択における個々人の内面的な蟠りと悔いの念をうみ、それはその集団の中で累積し、異なる機会での償い的行為の意識的あるいは無意識的な動機として作用したり、あるいは脈絡を持たない突発的な良識の発露として現れることが期待できるように思えます。
その結果として個人が良識を持つことは、その属する集団の集団的行動に良識的振る舞いを促し、非良識的振る舞いに対する抵抗として機能するように思います。
人間社会の集団的行動というのは、戦争や差別、迫害、虐殺、経済的搾取や環境汚染などの社会的、国家的、集団的な選択であり、その意思決定の責任を一人や少数の個人には求められない、集団的意思決定の累積としての集団的な振る舞いです。
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その意味において集団的行動に関して言えば、個人が良識を持つことは個人が良識的行動を選択すると同様、あるいはそれよりも重要なことなのかも知れません。
21.08.15.