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#4 人生の容量と忘却の正義

人生は積み重ねであると言われる。つまりは、時は重ねるものであると。過去・現在・未来という時間軸の関係は、この世界で最も単純で、最も奥の深い概念に感じる。

時間というのは面白い。秒分時という概念はありつつも、全てに相対的な時間が存在するからだ。地上で過ごす同じ単位の時間と、宇宙のどこかで過ごす同じ単位の時間にはズレが生じるらしい。あなたという時間の速さと、僕にとっての時間の速さは違う。と言うと、実感しやすい。だからこそ人は相対的なそれぞれの時間をチューニングするために、旅などの方法を駆使する。よく喧騒な都会での仕事を終えてリゾートへ旅行すると、そこに流れている時間はゆっくりに感じ、心に休息をもたらす。しかし流れている時間は一緒なのだ。

自分は数字だけで何事も決めてしまうことは、誤りだと思っているが、それはこのためである。数字を否定しているのではなく、数字は個によって単位の概念を変えるという前提によるものだ。

果たして、時は積み重ねていくものだろうか?表現方法としてそれが最も正しかったとしても、その前提ならば、人生に容量はない前提になる。だから自分は、時は積み重ねていくものだとは思っていない。なぜなら、人には常に一定の容量があるわけで、だからこそ人の脳には記憶だけでなく、忘却という優れた機能が備わっている。忘れるということは、素晴らしい発明だ。

しかしどうだろう??世の中では、忘却は悪のように感じられている。だから、時間は積み重ねていくという表現の方が正義に聞こえやすい。けれど、僕は全く異なる考えを持つ。

時間とは、更新である。そして上書きである。一秒より遥かに小さい単位の時間軸で、人は時を更新し続けていると。もちろん僕は研究者でも科学者でもないので、これはあくまで自分の人生を歩む時に対するスタンス。という前提でのお話。

これを友人に話す時に、分かりやすい例がある。それが、スマホのOS更新だ。同じ端末という入れ物(ハード・人体)は、中身(ソフトOS・記憶)を更新し続けていく。人生も同じようなものだ。

こんなことを全ての人が経験するはずだ。ふと目が覚めて辺りを見渡すと、自分ではないような違和感を感じる時が、きっとあるでしょう。いい意味でも、悪い意味でも。もっと分かりやすく言えば、「俺、なんかすごいな」とか、「なんでこんなとこにいるのだろう??」といった違和感かもしれない。

現実はこうだ。人生において、一秒前までの事など、もはや関係のないことなのだ。人生を積み重ねに例えるのは、人の愛情の部分による副産物でしかない。

人には常に容量がある。iPhoneで大量の撮影をし続ければ、すぐに端末の容量オーバーとなり、使い物にならなくなる。人間だって一緒。これまで歩んできた過去という時間達の記憶を保存し続けたら、その人が得るべき本来のパフォーマンスは得られない。

重要な記憶とは、過去の物ではなく、今という時間にも採用されているOSの要素として迎えられた事象。

残念なことに、僕たちの体というハードは、iPhoneのように簡単に機種変更をすることができない。しかしながら、人体には進化という機能が備わっている。つまりは、容量を増やすことができるのだ。多大な苦痛を伴って。1年前まで上げられなかったダンベルも、トレーニングすれば上げられるようになる。というシンプルな出来事もそうだが、人は保存領域を増やすことができる。

そしてその更新作業が終わると、人は例の違和感を感じるのだ。進化には退化も相対的に存在するわけだから、人によっては容量を減らし続けてる人もいれば、ずっと同じ容量に留まる場合もある。

時は重ねるものではなく、時は常に新しい創作と破壊の連続。常に何を採用して残すかの膨大な処理。そしてその処理も方法にも、多様性があって面白い。

忘却の正義。いかに忘れられるか。人生に優れた方法があるとすれば、僕はこれだと思っている。

逆に置き換えるとこの点は悪用ができる。忘れさせないようにすることで、その人の容量を縛り付けることができるからだ。それは等しく流れていくこの時の世界における監獄である。支配するという歴史は、まさにその監獄を巧みに活用してきたし、現代においてはさらにそれが洗練され続けている。

人生は積み重ねなのだから、過去の全てを受け入れよと、決して忘れるなと。人から忘れるという大切な権利を奪い続けているのも事実だ。

だから僕はチームにも、昨日までの出来事などどうでもいいし、関係ないと伝えている。常に今の時間が新しいチャンスであって、新しい世界なのだから。昨日までの栄光などどうでもよく、同じように昨日までの衰退もどうでも良い。とにかく時を上書きしていき、容量を拡大し続けようと。そして最後に、連れてきた時間を誰よりも愛そうと。それは自分が選択し続けて得た時間なのだから。

忘れるということは、連れてきた大切な自分を構成する時間達に、一層の愛情を注ぐ作業。だから忘れよう。人生の後悔とは、連れてきたかった時間を連れてこれなかった自分の容量の未熟さ。僕にもそんな後悔がたくさんある。とても悲しい出来事でありながらも、それを忘却せずにきたのは、それらの悲劇はこれからに必要な素材になったからだと思っている。

連れていきたい時間があるならば、もっとそれを感じてみよう。五感のすべてを活用して、それの情報を全て吸収しよう。

この記事を書いているベッドの横では、最愛の娘が小さな吐息を吐きながら寝ている。彼女は自分の未来である。そして僕の仕事は彼女の忘却の対象にならないようにすることであり、彼女がこの記事を理解できるようになるまで、彼女のメモリを築く手伝いをすることだ。いつか彼女が、これまで自分が感じてきたように、更新の度に感じる違和感に疑問をいだいた時に、この記事を贈ろう。

そしてその時に、僕は何を忘却し、何を連れてきたのか。また自分も偉大なる違和感を感じているようにありたい。

人生を上書きしていこう。忘れる権利を強力に行使して。


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