わたしは退く
恵みについて書きたい。いまのわたしを生かしてくれているもの、キリストの恵みについて。
つい最近のことである。わたしは自分の人生を自分で生きるのを放棄した。人生は自分で立ち向かうにはあまりに困難で、わたしにそっと囁くみ声に屈した。み声は言っていた、"Step back and let Me……" と。
み声に言われて、わたしは退くことにした。自分の人生から、日常から。そうして初めて気付いたのだ、どれだけ自分が表に出ていたのか、どれほど自分でやろうとしていたのかを。
精神的に、わたしは働きすぎていた。そしてそれに気付いてもいなかった。自分で出来ると思っていたのかもしれない。なにもかもが上手くいかなくて、わたしは退いた。そしてキリストに任せることにした。わたしの人生を、どうぞ生きてください。わたしの日常を、どうぞ代わりにー。
一日に何度となく、わたしは心のなかで両肩をそっと後ろにすくませる。それはわたしにとって、自らが退き、キリストに委ねる仕草になっている。多いときには数分に一回も、わたしは意識して退く。そして分かったのだ、ああ、これがあなたの仰有っていた安息というものなのですね、と。
『どんなことをも心配してはいけない。ただいつでも感謝をしつつ、祈りと願いとを捧げなさい』
そんな聖句、子どもの頃から知っている。けれどやっといま、それが現実として分かるようになった。子どもの頃、あんなに心配性だったわたしが、いまはキリストの腕のなかで、揺られるように過ごしている。
わたしには出来ない。日常のなかで神のような忍耐を働かせることも、誰かを七の七十倍赦すことも。わたしには出来なかった。けれどわたしの中に、神の霊が宿っている。死から甦ったキリストが、わたしの中に住んでいる。だからわたしはどこか後ろへ退いて、いつしか溶けてしまいたい。
『エノクは神とともに歩み、神が取り去られたのでいなくなった』
いなくなったエノクのように。わたしも消えてしまいたい。すこしずつ、すこしずつ、重力に抗うようにして、わたしの身が軽くなっていく感覚を、あらたな啓示を与えられるたびに感じている、そんな春。