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わたしが十字架だった頃
遠いのか、近いのかもわからない、ある過去のこと。わたしは丘のうえの、材木だった。木の種類はなにか? ローマ帝国において、囚人の処刑用にどのような木材を用いたのかなんて、よく知らない。べつになんだって構わない。
それが鈴ヶ森だったのか、エルサレムの外れだったのかも、よくわからない。たぶん後者だろうけども、どちらにも行ったことはない。ここではないどこかで、わたしは、かれを苦しめる処刑具だった。
わたしは、かれを苦しめた。かれはぐちゃぐちゃになって、その体液と血とが、わたしを濡らした。でも、わたしは何も感じなかった。
わたしは、かれの十字架だった。
わたしはかれに、苦しみを与え、かれはわたしに、生命をくれた。わたしは無感覚で、なにが起きているのかも、理解していなかった。
日曜学校に通っていたころから、くりかえしくりかえし、その話しを聞かされてきた。
『イエスさまは、どれくらいわたしを愛してくれてるの? かれはそっと両手をひろげて、十字架にかかってくださった』
わたしが感じられなかったとしても、それが真理であることに変わりはない。じぶんも十字架を背負うようにならなくては、かれの痛みは感じられなかったのかもしれない。
わたしの手もとにあるのは、いくつかのちいさな十字架。それを拒んで、人生を破滅させることも、受け入れて、十字架として背負うことも、自由に任されている。
一瞬、誘惑にかられた。文句を言って、放りだしてしまいたい、こんなのわたしの荷じゃないって。でも、声を思いだした。じぶんの十字架を背負って、日々、わたしに付いてきなさい、という声を。
それで、背負った。ちいさなちいさな、わたしの十字架たちを。そのとき、たぶん生まれてはじめて、じぶんがかれの十字架であったことを悟った。わたしの心に、かれのむごたらしい死に様が、フラッシュバックした。かれの痛みが、わたしの心に、刻みつけられた。
わたしは、かれが愛おしくてたまらない。かれの痛みが、いまだって心に感じられるから。もしかしたら、わたしは十字架を、ようやくじぶんの出来事にできたのかもしれない。わたしのちいさな苦しみのすべてが、ここに繋がっていたのなら、それはうれしい、うれしいことだ。
かれは、じぶんを苦しめる十字架を、憎まなかった。かれを苦しめていた、その瞬間でさえ、わたしのことを愛おしんでくださった。そう心に感じると、ほかのすべては、どうだっていい気がしてくる。
わたしは、うれしい。いままでじぶんを苦しめていた事柄が、かれに比べたら、あまりに些細になって、心にかかりもしなくなることが。わたしは、うれしい。かれがいま、わたしと生活を共にしてくださって、日曜日の神でも、教会の神でもなくなっていることが。わたしは、うれしい。かれに恋しているから、夕暮れの海が、やわらかな雲が、その愛のささやきに感じられることが。
わたしは、じぶんがどこかに到達したとは思わない。ただ、わたしがかれに恋しているってだけ。たったそれだけ。それだけのこと。