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まなざしを重ねる




 まなざしを重ねる。そんなことを、考えている。キリストと、まなざしをひとつにすること。

 「イエスさま、ついにあなたと、恋に落ちてしまったかもしれません。でもわたしは、なにをして生きていったらいいんでしょう?」

 そんなふうに問いながら、生活をしていた。この日常のなかで、わたしはどうやったら、あなたに愛を示せるんでしょう。

 「こころを尽くし、思いを尽くして、あなたの神である、主を愛しなさい」
 「あなたの近くにいるひとを、あなた自身のように、愛しなさい」

 ふたつの掟。キリストご自身が、なによりもたいせつだと言っていた、ふたつの掟。それが、心に与えられた答えだった。

 「愛するとは、おなじ方向を見つめていることだ」

 といったのは、サン=テグジュペリ。なんとなく、わかったような気がした。

 愛しあうふたりは、まずお互いを見つめあう。わたしも、ただ彼のことだけを考えて、心から歓びが、泉のようにあふれる瞬間が、ある。

 けれどわたしたちは、生活をしていかなくてはならないから。ずっとふたりきりではいられない。手と足をうごかさないといけない。ずっとあの場所に、留まることは不可能だ。

 そういうことなんだと思う。わたしのまなざしを、キリストのまなざしに重ねて、あのかたが愛するものを、わたしも愛すること。あのかたの手足になること。

 きっととっても、単純なことなんだと思う。あのかたが見つめるところを、わたしも見つめる。お互いを見つめあう場所と、まなざしを重ねる場所とを、行き来しながら。

 「不実なおんなですが」

 とわたしも、まひろさんじゃないけれど、心のなかで思った。わたしは、みずからを誇ることができない。わたしは、ただのどうしようもない人間。じぶんが相応しいなぞ、思うことさえできない。

  「なんのことだい?」

 あのかたは、そうおっしゃった。呆気にとられているみたいに。それでわたしは思いだした。十字架の血のこと。わたしを愛するがあまり、わたしの罪をなかったことにするために、あのかたが死んでくださったことを。

 ちいさな鏡を、差しだされた。金色の縁、銀色の縁、なんだったかわからない。ただ、そのなかには、まっしろの衣を着たわたしが、映っていた。まるでいちども、罪を犯したことがないみたいに。

 キリストの血がじゃまをして、神には、わたしの罪が見えないのだ。だからあのかたの目に映るわたしは、まっしろな衣を着ていて、まるで天使かなにかのように見えるのだ。

 どうしてそんなことになるのか、わたしにはわからない。でも聖書には、そう書いてある。どうしてそんなに、わたしを愛してくださるのかも、わからない。聖書には、そう書いてあるのですけれど。

 そのことに比べれば、わたしがこうして愛の歌を綴っていることなど、物の数にも入らない。ただわたしのなかの何かが、わたしに歌わせるのだ。あのかたへの愛を、言葉にしなければ、わたしははち切れてしまうかもしれない。

 


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