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コスマスさんのご馳走


 コスマスさんは、アフリカの某国の大富豪だそうだけれど、そんなことは知らない。何年もまえ、川崎の貸しホールで教会をしていたとき、ふらりとやってきた。証しをしただけだったのに、教会は沸騰した。どんな証しだったっけ、それはたぶん、こんな感じだった。

 何十年も、クリスチャンとして、良い教会員でいた彼は、なにか満たされぬものを感じていた。虚しさ。そんなことを彼は言っていた。ある時、出張できた大阪のホテルで、同じ国のひとに会った。そのひとは、後生大事そうに、黒い本を抱えていた。なんだ、あれは。魔術書かなんかか? コスマスさんは、怪しそうにそれを見ていた。

 そのひとは、暇さえあれば、その本をひらいて読んでいるのだった。それが気になったコスマスさんは、一瞬の隙をついて、本を奪った。それは、聖書の黙示録にでてくる、七つの封印について解き明かした本だった。コスマスさんは、惹き込まれてしまって、自分の部屋に持ち帰って読んだ。一睡もねむらなかった翌朝、持ち主に謝ると、かれは「わかってたよ」とだけ言って、ほほ笑んだ。

 それが二十五年前のこと、とコスマスさんは言った。あのとき、聖書が、あたらしい本になって、目のまえに開けたみたいで。聖書自体はまったく同じ、変わっていなかった。ただあたらしい啓示を、あたらしい深みを与えられただけ。そのときから、コスマスさんとキリストは、すこしずつ、恋人のように親しい間柄になっていった。だから、この日本で、みなさんの教会に出ることができたなんて、奇跡のようにうれしい。

 ひとむらの熱風のように、コスマスさんが去ってから、彼を知るアフリカ人が、あのひと、ほんとはすごいひとなんだ、国で第五位の億万長者なんだよ、と言った。そんなことは、微塵も感じさせなかった。貧しいひとも、裕福なひとも、みながごちゃまぜになって、ひとかたまりの教会にあって。

 きのう、彼の説教の通訳をした。それは、成熟した、とてもバランスのとれた言葉で、じぶんで通訳したというのに、もういちど聞き直したい、とおもうくらいに良かった。わたしは自分の声が好きでないから、あまり録音は聞きたくない。だから覚えている限りで、彼が語っていたことを、書き置いてみたいとおもう。

 「目に見えないものを、見つめていなさい」

 コスマスさんは言った。いくつも、いくつも、聖書の言葉をかさねて。星の王子さまみたいな言葉を。そう、王子さまは、聖書の真理につうじることを語っていたのだ。

 「見えるものは過ぎさる。ロールスロイスも、腕時計も、豪邸も、みな一時的なものに過ぎない」

 彼の身なりは、たしかに上質そうではあるけれど、日本人からすれば、普通の域に留まっている。なにより目立つのは、ジャケットの胸についている、金色のブローチ。Jesus is Lord という文字が、切り抜かれ、おおきく踊っている。

 「それからあなたの家族も。夫も妻も子どもも、みんな過ぎ去る。一時的な存在でしかない」

 「あなたの問題だって。どんな試練も、一時的なものでしかない」

 「子どもが、神に反抗して、悪いことをしはじめたとしよう。そういうことは、よくあることだ。でも、騒ぎたてちゃいけないよ。一時的な反抗に、恒久的な裁きをくだして、子どもを勘当したりなんかしちゃいけない。祈って、神さまにゆだねたら、あなたは美味しいコーヒーとチョコレートでも食べて、さっさと寝てしまいなさい」

 ここで笑い声が起こる。彼は夜にコーヒーを飲んでも、眠れるひとなのだろうなあ。

 「主によって、みずからを喜ばせよ。そうすれば主が、あなたの心の願いを叶えてくださる」

 コスマスさんは、詩篇を引用した。

 「どうやって、主によって喜ぶのか? それはね、主の御心を行うことだよ。御国の鍵とはね、従順であることだ」

 「鍵は、ひとつじゃない。人生にはいろんなことが起きる。それぞれの状況に、最適な鍵を見つけなくてはならない。その時のための、みこころを知ること。そうすれば、主はあなたの心の願いを叶えてくださる」

 「こういった問題や試練によって、わたしたちは、キリストのようになっていく。神さまは、成熟したクリスチャンを求めておられるんだ」

 ああ、彼が言ったことを、もっと上手く表せたらいいのに! コスマスさんの言葉は、彼が生きた知恵だった。うわすべりの言葉ではない。経験と実質をともなった、火で試された金みたいな言葉だった。ちょうどその時のわたしが、聞く必要のある言葉だった。

 一時的なものと、本質的なものについて、コスマスさんは多く語ったけれど、それはわたしに、アン・モロウ・リンドバーグの本を思い出させた。わたしは過ぎさっていく瞬間、一時的な恩寵に対して、どう心構えをすればよいのかわからずにいた。もうすこし、わかりやすく言ってみましょうか。

 子どもを育てていると、いまの一瞬を大事にしなさいよ、とか、まあ、ほんの一瞬よね、そんなに子どもが可愛いのも、大切にしなさいねえ、とか毎日のように言われる。子育てをしているひとは、わかってくださるでしょう? 

 でも、その一瞬は過ぎさっていくのだ。わたしはファウストじゃないし、時よ止まれ、なんて言う気はない。いまの一瞬一瞬を、一生懸命生き抜くのに精いっぱいなのよ?

 子どもの横顔を眺めながら、考えた。この子をこんなにうつくしいと思うのも、ほんの今だけなのだとしたら、いったい母親という仕事はなんなのだろう。わからない、上手く表せると思えない。でも、どうして一時的で、過ぎ去っていくものを、惜しめと言われるのかしら。惜しむことができるの? 惜しんでどうしたらいいの? それは形を変えた後悔でしかないんじゃないの?

 わたしも、子どもも、どちらも過ぎさっていくだろう。わたしなんかは、もう過ぎ去り始めている。これは、一瞬の恩寵、一時的な祝福だ。それ自体を見つめていても、跡にはなにも残らない。この恩寵の先、その源を、わたしは恩寵の存在をとおして、見つめる。それは目に見えない。目に見えないものは、いつまでも続く。そうして、わたしは過ぎ去っていく日々と、渡りをつける。

 そして過ぎ去っていくのは、恩寵だけじゃない。試練だって、苦しみだって、過ぎ去っていく。わたしが考えていたこと、本を読みながら、探ろうとしていたことを、コスマスさんは、彼が生きて自分のものにした啓示として、語ってくれた。それに感動して、いまこの文章を書いている。

 もうだいぶ長く話してから、コスマスさんは、あれ、まだ時間はあるかな、と気にし始めた。ふしぎなことに、通訳のわたしは、最後までなんとか集中力も体力も切らさずに、訳し通すことができた。朝ご飯ぬきだったのに、すごい。

 最後は、春夏秋冬のことを話した。

 「信仰に入ったばかりのころは、春。まだ赤ちゃんみたいに、手とり足とり世話を焼いてもらわないといけない。神さまは、お母さんのよう。祈れば、すぐにでも答えがくる。桜が咲いて、うつくしい季節。でも、季節はめぐっていく。いつまでも同じ場所にはいられない」

 「それから、夏が来る。夢を叶えるために、努力する季節が。みずからの役割をさとり、それにむかって、ひた走る夏。独立するために、みずからの足で立つために、努力する季節。人生の青年期、それが夏」

 「そして、秋。暑くもなく、寒くもない。ちょうどよいとき。みずからは成熟して、その夢を、ひとに託すとき。他者の夢をかなえるために、力を尽くすとき」

 「人生の終わりは、冬のよう。落葉のように、だれかの夢のため、肥やしにならなくてはいけない。人生は、どれだけ与えることができたかで計られる。あなたの死が、だれかを生かさないのなら、その人生は、効果的ではなかったということだ」

 「季節は、巡っていく。一年のうちに、なんども季節が変わるように、いま冬を生きているとしても、やがて春がやってくる。来るなといったって、止まってはくれない。わたしたちに出来るのは、やってきた季節に、適切な対応すること。嵐はかならずやって来る。問題は、砂のうえに家を建てたか、岩のうえに建てたか、ということ」

 「あなたの心の奥深くに、永遠を求めて呻くものがある。じぶんの目的、役割を見いだしたいという、抑えきれない欲求。神に造られたその欲求は、神によってしか満たされない。あなたのうちに、深いものが眠っているからこそ、深いものがそれを呼び覚ますのだ」

 コスマスさんの説教が終わったら、わたしは疲れて、もう立ち上がれなくなっていた。わたしの短期記憶はお粗末で、それをなんとか文脈の理解で補おうとするから、通訳したあと、じぶんのなかにほとんど説教の真髄など残りやしない。でも、すごいご馳走だった。畑からとれたばかりの、新鮮で、いかにも栄養がありそうな食事。

 コスマスさんも言ってた。もし目のまえに贅沢なフランス料理が用意されていたって、食べなければ意味はないって。みことばを食べることについて、語っているのである。いくら写真を撮って、Instagram に上げたって、ちゃんと食べなくっちゃ、なんの意味もない。みことばを、食べること。天使の手のなかの巻物を、むしゃむしゃと食べてしまうこと。アーメン、ほんとにそうです。この身に、その通りになりますように。

 まあ、礼拝のあとの昼飯は、まだ胃が神経質になったままだったから、いろいろ用意されていたのに、マッシュポテトしか手を付けられなかった。じぶんで作って持っていったマッシュポテト。ちょっと豆乳を入れすぎて、やわらかい、と味気なく思った。アラバマで食べた、あの美味しいマッシュポテトとグレービー、あれが懐かしくてたまらない。



 


 



 


 


 

 

 

 



 

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