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真夜中に見たもの


いつも日曜は教会に行くけれど、わたしの役目は通訳か子守りかの二極なので、子守りの日にはただぼんやりと、公園に放牧された子どもたちを眺めていることになる。

いま書いている話の、文章には出てこないであろう、登場人物たちの細々した設定 (遺産相続の分配だの、テニアン島で戦死した伯父だの、先祖の職業だの、過去の恋人だの) をいろいろ練りながら、ときどき牧師の娘に「シスフサエェ」と呼ばれていって、垂れさがった枝に届くまでブランコをおもいきり押す、そのくらいがわたしの役割である。

それで良いはずがない、とじぶんでもわかっているので、先週はちゃんと真夜中の礼拝を見よう、とみずから決めた。じぶんが霊的に乾いてしまう兆候くらい、もう捉えられるようになっている。子どもの面倒を見るというのは、自己犠牲のような、ほんとうは通訳よりも大変なくらいの大切な仕事だと、じぶんでも分かってはいるのだけれど。

その日は、わたしの実家であるアラバマの教会の、特別集会の最終夜だった。十二時になると、母が下に降りてきて「始まったよ」と教えてくれた。母とふたり、暖かい光のほのかに灯る暗いリビングで、真夜中の賛美をしていた。

おなじ聖霊を宿したひとが集まって、そのキリストを賛美するのにはなにか特別なものがある。わたしと母のよく似た声が、上と下とにあわさって暗闇に伸びていった。アラバマに訪れているらしいキリストの雰囲気は、わが家のリビングをも満たしていた。

賛美が礼拝となり、それが天にふれるほど高まったときに、わたしは静寂を感じた。そしてわたしの前に、なにか目には見えないもの、そこにあると感じるけれど、こちらの世界のものではないものが見えた。

わたしが見たのは、透きとおった金のようなもの、とても硬い大理石のようなもの。とても硬くて、しっかりとして、揺らぐことのないもの。どんなものより確かに存在しているもの。

それはキリストの足のようにも思えたし、天のみやこの土台のようにも感じられた。どちらにせよ、草の吐息みたいに儚い人間の存在とは、比べ物にならないような、永遠の、はじまりも終わりもないような、現実以上に確かな、目には見えない存在をわたしは感じた。

そのとき霊の歌が聞こえた。副牧師である、わたしの友達のお父さんが、ただ霊で感じたとおりに、この世の言葉ではない歌をうたっていた。それは天上の音楽だった。この世には、あんなに清らかで、うつくしく、混じりけのない音楽は存在しない。マーラーのアダージェットが、いかにも俗っぽく感じるような、神のいるところで流れているであろう音楽だった。

そのすべては、ほんの二秒ほどの出来事だった。けれどその二秒は、時間の介入する余地のない二秒間で、わたしのいままでの人生のすべてよりも、確固としてそこに存在していた。

キリストに酔うような時間がゆるやかに続いたあと、牧師がこう言う声が聞こえた、

「キリストとともに過ごす二秒間は、十二時間の睡眠に勝る」

それを聞いてしばらくしてから、わたしは下に降りて、十二時間にはだいぶ足りないであろう睡眠を取りにいった。翌日の睡眠不足は、昼寝をして補った。



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