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根をたしかに持つこと



 新年早々、根こそぎになったビルの映像を見た。あっけなくぺっしゃんと潰れた瓦屋根の家々、何百年も続く家並みや文化財。

 過ぎた年だって、思いかえしてみれば。六月、ウクライナで反転攻勢がはじまり、朝ごとに進捗をたしかめた。戦争の終わりにつながるような戦果は、結局なかった。いまに至るまで、まるで第一次世界大戦のような、泥沼の塹壕戦がつづいている。

 そしてイスラエルの戦争。これはウクライナのように、わかりやすい戦争にはならなかった。日本で流される報道のすべてを、鵜呑みに出来る戦争ではなかった。わたしはイスラエルを支持している、聖書がそう命じているからだ「。」ウクライナの戦争と違って、わたしは意図的に、情報をシャットダウンしなくてはならなかった。わたしの根が命じることに、従うために。

 根をたしかに持つこと、について考えている。その根は、目には見えないものでなくてはならない。見えるものの不確かさを、日々思い知らされているから。持ち運びの出来る根を。どんな状況に置かれても、いつも養分を得ることが出来るような、たよれる、確かな根を。絶対的なものに、繋がっている大切さ。

 この世の正義は、くるくる変化してばかり。今の時代の価値観にアップデートしろ、とみんなは言うけれど、なにを基準にそれを正しいとするのかしら。

 とにかく、わたしはこの世の中から遠く離れたところに、根を張らなくてはならない。正気を保てる気がしないから。持ち運びのできる根を。なにがあっても、わたしを支えてくれる根を。

 『たといわれ死のかげの谷を歩むとも
禍をおそれじ、
なんじ我とともに在せばなり』

 たとえ枝を伸ばせなくても、実が成らなくても、根を伸ばしなさいと、ある日曜日、牧師が言った。

 「嵐が来ても、耐えられるような根を、深く深く張りめぐらせなさい」

 わたしをキリストに繋ぐ根を。なにがあっても、わたしをキリストと繋いで、どんなことにでも、耐えられる根を。逆境のなかでも喜びを、苦しみのなかでも歌をうたえるような、ゆたかな養分を与えてくれる、そんな根を。

 「どうやって、どうやって、根を張ればよいのですか?」

 そう目で問うわたしに、牧師は答える。

 「なにか難しいことを言うと思うでしょう? あの本を読んで、この祈りを唱えろだとか、このセミナーに参加しろだとか。
 違うんです。根を張るために必要なのはね、いいですか、とっても単純なことなんです。それは……、
 毎日聖書を読んで、祈りなさい。さあ、たったこれだけのことです。根をたしかに持つために必要なのは、こんなに単純なことなんです」

 目の前の説教壇から、びっくりしたでしょう、と牧師が目をかがやかせた。神さまは単純なことのうちに隠れておられるから。そして単純なやり方で、ごじぶんを明かされる方だから。

 新たな年の方針が、そうして与えられたのだった。なにもかもが根こそぎにされる時代に、たしかな根を持つために。

 「毎日聖書を読んで、祈りなさい」

 はい、わかりました。日曜学校の頃から、ずっと言われているような気がするけど。そういえば真木さんが、「シェイクスピアより聖書を読みなさい」と言っていたっけ。

 「キリストが生えてくるように、自然に、あなたとひとつになるように。毎日、聖書を読んで祈って、キリストと時を過ごしていれば、あなたからキリストが、溢れだしてくるようになるから」

 ……とのことでした。雪の降る夜に、枕もとの聖書は、マルコ書を開いている。そういうわけですから、子どもも寝かしつけたことですし、わたしは根をたしかに持つための作業に、戻ることにしようと思います。おやすなさい。

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