目に見えないもの
ひさしぶりに乗った朝9時のバスは、お年寄りから小学生まで、さまざまな人生がひといきれするように、息苦しかった。山を下るバスに、おなじ住宅地のひとびとが詰め込まれている。ここが山の上の開拓地だった頃から住んでいるひとびと、それから時を経て、地縁もないけれどただ移り住んできたわたしたちの世代。
バス停に近づくと、バスを降りたひとびとが見えて、わたしはベビーカーを押しながら走った。
「はしらなくていいよお! ゆっくりしないとあぶないよお!」
とベビーカーのなかから聞こえてくる、抗議の声を黙殺して。バスに乗る手前で、子どもを無理やり下ろし、手早くベビーカーを畳んだ。そしてくったりとした子どもの手をひいて、素早くカバンからSuicaを探す。無事に見つかった。
車内は案外空いていて、わたしは手近な二人席に、ベビーカーを押し込んだ。けれどここ数日、成長痛らしきものを訴えている子どもは、動こうとしない。
「あしがいたいからうごけないよお」
その間に、留め金を掛け忘れたベビーカーは、通路でゆっくりと開いてしまい、親切なご婦人が「大変ねえ」と言いながら、支えてくれた。子どもを抱き上げて席におさまる。次のバス停で、車内は一杯になった。
わたしの後ろの席は、小学生のお兄ちゃんたちだった。夏期講習に行くところらしい。宿題のはなしだのをしている。宿題を忘れた口実だのをしていて、どうしても耳に入ってくる。あとはゲームのはなし、お小遣いのはなし。聞いているふうではないけれど、きっとうちの子どもも耳を立てているのだろうなあ、と思いながら聞く。お兄ちゃんたちというのは、いつも気になる存在のようだ。
「しょうぼうしゃ、いっぱいいるねえ!」
うちの子どもは毎回のように、消防署の前を通って喜びの声を上げる。後ろでお兄ちゃんたちは、こんな話をしていた。
塾でだれかにお手紙を書くらしい。だれか、会えなかったお友達に、勉強の時間を割いて。それに対して、もうひとりがこう言う。
「その気持ちはわかるよ。でもさあ、そんなことのために自分の人生を、成績とかを狂わせる必要はないよ」
彼は大切なこと、人生、成績、と何度か繰り返した。成績、犠牲にする、人生が狂ってしまう。
『ほんとうに大切なものは、目に見えないんだ』
わたしのなかで、小惑星B612から来た小さな王子さまが呟いた。最近寝かし付けのときに、子どもに読み聞かせているのだ。
『おとなみたいな言い方だ!』
星の王子さまが叫ぶ。バスの車内で、三十近いわたしが、十才そこらの少年に心のなかで言う、
『おとなみたいな言い方だ!』
わたしは彼を知らないし、成績や学歴が絶対的なものだと教えている家庭が、彼の背後にあるのかもしれない。それはわたしの知ったことではない。あの地域は、そういう子どもたちで溢れている。わたしの周りにだっていた。
ほんとうに大切なことは、目に見えない。物質的に裕福でも、精神は貧しいままの人間になっていくのだろうか。いつまでも残るものはなにか、この虚しさの正体を、いつの日か、彼は考えることがあるだろうか。