Dear child (エッセイ)
あれは水曜日の朝のこと。
わたしと子どもが目覚めたときには、二階でもう教会の賛美が終わっていた。白いひかりにかがやく部屋には、聖霊の気配が漂っていて、孫が起きるまえのしずかな時間に母がひとり、賛美に浸っていたらしかった。
画面のむこうのアラバマのひとびとは、濃霧のようなキリストの気配に酔ったまま、そのなかでたゆたっている。子どもを抱いてパジャマのまま上がってきたわたしも、その状況を察すると、いっしょに歌詞も曲もないような、聖霊がうみだすハーモニーに加わった。そとの山で鳥がうたい、こもれびの揺れるうつくしい朝。腕に抱いているこの子に、このキリストの雰囲気を感じとってほしいと祈りながら。
その日Wi-Fiの調子は悪く、賛美のあとの説教はぷつぷつして聞けずじまいだった。わたしは賛美も寝過ごすし、説教は聞けないしで、なんだか飢えたような気で過ごした。
ちゃんとご飯を食べなくてはいけません。それも栄養のある食事を。子どもの頃から偏食で、いまは治ってきたものの、子どもがいま同じような偏食になってしまって悩まされているわたしが言うのです、忙しくてもちゃんちゃんとご飯を食べなきゃ、霊的なご飯を、とわたし自身に。
木曜の夜はいつも、10時から初心者向け聖書講座の通訳をリモートでしている。いつも問題になるのは、いかにしてそれまでに子どもを寝かしつけるか、それか子守りをしてくれるひとを見つけるか。それもうちの子は、すこしでも機嫌が悪いと、ぜったいにママ! ママじゃなきゃだめ! になってしまうので、いつも手こずらされている。そしてその日は、絶対にママの日だった。
「ママ、つうやくして。ぼく、ママがつうやくしてるのきいてたいの」
と8時半にごねている彼は、しかしその日まだ昼寝をしていなかった。手足はあたたかい。わたしはこれは勝機があるとみた。どうして眠たい子どもはあんなに理不尽なんでしょうね、まだ講座が始まってもいないのに、つうやくして! とごねられて、わたしは水曜礼拝の録音を再生しはじめた。
寝室のとなりの部屋で、ひじ掛け椅子にふたり納まりながら、わたしは早口なアラバマの牧師の言葉を訳しはじめた。それで彼は満足したらしいけれど、ほんとうの仕事が始まるまえに体力を消費したくなかったので、録音をすこし戻して、わたしはあの水曜の朝の賛美を掛けることにした。
どんな歌だったのかも覚えていない。ただ子どもを膝にのせ、フロアランプのオレンジの灯のもとで、すぐにわたしは泣きながら賛美していた。わたしはたしかに泣き虫だけれど、だってキリストがすぐそばにいるのを感じたのだもの。そんな母に包まれながら、子どもは抗うことをしなかった。いつもだったら一分と大人しくしていないのにね。
『Jesus, Jesus 』とわたしはしずかな声で、むせぶように歌っていた。すると腕のなかから『じーじゃしゅ、じーじゃしゅ』と歌う声がした。わたしは大げさに気付いたふりをしたくなくて、夜の部屋でただふたり、ジーザス、と歌っていた。様子を見にきた母は、かすかに扉をあけるとそれを察して、われわれをそっと賛美のなかに残していった。