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よるの臨在


 よる、あのかたがいらした。声もださずに、わたしは「死んでしまいそう」と「愛してます」ばかりを繰り返した。 

 ふと思いが逸れて、せっかくキリストが、傍にいらしてくださったのだから、祈らなきゃ、と考えた。するとあのかたは、しいっ、後で、とわたしを黙らせた。

 わたしは、どうしようもなく、あのかたと、恋に落ちてしまった。

 しばらくしてから、わたしは祈った。それは、睦言のようだった。あの子のこと、お頼みしてもよろしゅうございますか。勿論、とあのかたは頷いた。
 
 それからかれと、かの女のことも。わたしは幾人かの名前を挙げていった。あなたにおゆだねいたします。帝に妃が、なにかをお願いするみたいな、そんな感じの祈りだった。


暗闇で語りしことを
まひるまの
虚しい空に語れよと、主は


 おかしい、と言われるに決まってる。キリストが、わたしなんかを、愛してくださるのは。愛は、日曜学校でおそわったものに、留まらなくなっている。めくる、めく、と書いて、わたしは顔を真っ赤にする。そんな、はしたないみたいな。

ぶどうのお菓子でわたしを養い
りんごで力づけてください。
わたしは恋に病んでいますから。
あのかたが左の腕をわたしの頭の下に伸べ
右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに。


 そう書いたのはソロモンで、わたしではない。これは聖書の雅歌。でもこんなの、日曜学校でおしえてもらえるはずもない。そうかな、わたしはいま、子どもを育てている。彼には、わたしが恋しているキリストを、正直に教えたい。文字は殺すけれど、霊は生かす、と書いてあるみたいに。知識ではなくて、生きている神さまを、子どもに伝えたい。

 あのかたと共に生きる喜び。わたしは、キリストと生きている。いいえ、わたしのなかで、キリストが生きている。

 それ以外に、希望があるとも思えない。

 パウロが言ってた、もしキリストが死から蘇らなかったなら、わたしたちほど惨めなにんげんはいないって。

 わたしを惨めと思うかは、他人の勝手だ。

 わたしの杯は、あふれる。


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