暗闇の灯 (小説) 8 [完]
あらすじ
クリスチャンの家庭に育ったものの、信仰を離れて久しい灯は、みずからを呼ぶ声をかんじながらも、それに抗いつづけている。『あちら側』にいる家族たちのやさしさは、灯にはなまあたたかく、そして息ぐるしい。
神に、そして家族に反抗するため、離婚経験のある子連れの男と結婚した灯だったが、その結婚相手さえをも、神は呼んでしまう。逃げだしたはずのクリスチャンホームで、ただひとり神を信じていない継母として暮らす灯。七歳になった血の繋がらない娘は早熟な子で、幼くして洗礼を受けたい、と言いだす。
さわやかな五月の海で、複雑な生い立ちを背負う娘が、教会のひとびとから祝福されながらキリストに身を捧げる姿を眺めながら、灯のこころにもなにかが、確実に迫ってきているのであったー。
紙の本でしか読めなかった小説の後半部分を、いまちょっとずつnoteにあげているところです。必要なひとにとどきますように。
*この小説は作り話であって、実在の団体や人物とは何の関係もありません*
十一
「この家に来ると、いまにも祖父が、その扉から出てきそうな気がしますわ」
居間のソファに腰をかけて、八枝が嬉しそうな声で言う。ふっくらしたお太鼓の後ろにクッションを当てて、さすが旧家の奥さまは着物でもくつろぐことが出来るらしい。洗礼式のあと、教会のひとびとと早めの夕食を取ってから、灯の家には、真木夫妻と久米の三人の客が残った。真木夫妻は今晩この家に泊まることになっているからであり、久米は、真木夫妻が、久しぶりの彼を離したがらないからであった。
「もう亡くなって二十年近くも経つのにねえ。灯ちゃんも田口さんも、この家を守ってくださって、有り難いわ」
なつかしそうに、八枝は辺りを見回す。漆喰に塗りかえた壁に、油絵のかかる居間には、白くて明るい海辺の雰囲気がある。建ってからもう四十年になる家は、床は飴色で、なかなかいい味が出て来ている。田口親子が住み始めてから、この家もすこしずつ変わってきた。けれど、なにもかも新しくしてしまえば良い、というような野蛮な思想を、灯は持ち合わせていないので、昔を懐かしむ八枝も違和感を覚えないで済むらしい。
「お祖父さんはどんな方だったんですか」
田口が低い声で、八枝に聞く。八枝はすこし灯を見やってから、一瞬考えて言う。
「祖父はね、アブラハムみたいなひとでしたわ。家族を引き連れて、真理を追い求め、教会から教会へと彷徨ったんですの。死んだ宗教には耐えられない、って言っていましたわ。キリストは過去形の神でも、未来形の神でもなく、昨日も今日も永遠に変わらない神だって、聖書に書いてあるのだから、どこかに現在形のキリストが、生きている教会があるはずだって」
「祖父は、使徒行伝に、イエスキリストの名によって洗礼を受けなさい、って書いてあるのを読んで、自分もその通りにしたいと思ったんです。でも教会で断られて、わざわざアメリカに渡って、洗礼を受けたんですの。自分のなかに宿る聖霊に従うためなら、周りの誤解をも恐れないようなところがありましたわ」
そういうと八枝は首をかしげて、隣に座る真木を見やった。
「そういうところ、ちょっとあなたに似ているかもしれません。祖父はクリスチャンの家に生まれたので、仏壇には悩みませんでしたけど」
「信仰のパイオニアだったんだね」
真木が、いたわるようなやさしい目線を、傍らに座る妻に向けながら言った。
「わたしなんかは、祖父や両親が用意してくれた道を歩んでいるだけですの。でも、ほら、あなたや田口さんや久米さんは、自ら神に出会った第一世代の方でしょう。時々わたし、羨ましくなりますわ。なんだか覚悟の深さが違うような気がして」
「八枝さんに羨ましがられるなんてねえ」
窓辺の椅子に座って、久米が長い足を組み換えながら言う。
「ぼくたち第一世代はね、自分は罪を犯したけれど、せめて次の世代には、八枝さんみたいに清らかに、神に身を捧げて欲しい、と思うものですけどね」
田口がふと頭をあげて、すみれの部屋の方角をじっと見つめる。洗礼式で主役を務めて疲れたのか、すみれは家に帰ると、ねむいと言って部屋にこもった。久米が言葉を続ける。
「ぼくは最近思うんです、いつもいつも、キリストに無我夢中でいられる情熱が欲しい、って。あなたが欲しくてたまらない、っていうような情熱に、礼拝のあとや、良い賛美の間だけじゃなく、日常生活でも浮かされていたい、って」
そう熱を込めて語る久米は、すこしどぎまぎしてしまうほどハンサムだった。いつも愛想の良い彼だが、どこか激しいものも秘めているらしい。
「色男が言うと、何だかなあ」
真木は笑いながらそう言うと、長椅子から立ち上がって、電子ピアノのある片隅に向かった。音量を下げて、ゆったりとした讃美歌を弾く。灯は、彼がシューベルトを弾くのを聞いたことがある。お坊っちゃま育ちの彼のピアノの腕は、相当なものであるらしかった。
しばらく皆は、黙ってピアノを聞いていた。灯は台所に立ったり、すこし離れた椅子に掛けたりしながら、一座を観察している。田口の表情がいつもより生き生きしているのに、灯は気づく。神を知るひとびとのあいだにいるからだろうか。
「そういえば久米さんは、どうして洗礼を受けたの?」
今日は質問係りになったらしい田口が、しずかに沈黙を裂いて聞くと、一瞬部屋の空気が重苦しく固まった。難しくもないところで、真木の運指が乱れたのに、灯は気付く。
「街でお会いしたわたしが、久米さんを教会にお誘いして、それから洗礼を受けられたんですの」
八枝が品良く、けれど無理やり不穏な空気を均すようにして答える。久米は苦笑しながら頷いていたが、それをおさえるように、真木はピアノを弾く手を止めると、八枝の方を向いて、からかうように言った。
「上品な言葉で言うならね。おれなら、うちの奥さんをナンパした久米くんが、教会にやってきて、うちの奥さんにちょっかいを出そうとしたところを、逆に神に捕まえられた、とでも言うだろうけど」
「真木さん!」
八枝が声を上げる。灯と田口が注視するなか、目を伏せていた久米が顔を上げた。
「そう、あのときは本当に申し訳なかった。ぼくが洗礼を受けようと思ったのはね、赦されなくてはならないのはぼくだったのに、八枝さんに、わたしを赦してくれますか、って言われて、衝撃を受けたからかもしれません。わたしは久米さんを赦しますから、久米さんもわたしを赦してくださいな、と八枝さんに言われたとき、キリストが本物で、生きているのを感じたんです」
「それが年の近い八枝さんだったのも、良かったのかもしれない。ぼくは散々この世の淀みのなかを生きてきて、この虚しさを癒してくれるものはこの世にない、と知っていたから、八枝さんの持っている本物の神を、自分も求めたくなったんです」
「そういうことだったの」
灯は思わず呟いた。何年も前から、久米と八枝のあいだに、なにかがあるのを疑っていたのだ。
「すべては良きことの為に働く、ってね」
再びピアノを弾き始めた真木の声に、苦々しさはなかった。意地の悪いことを言ったのも、久米から正直な証しを引き出すのが目的だったらしい。
「さあ、今日は証し大会だ。次は誰が行きますか」
真木が煽るように言う。そんなふうに言われると、みなどこか萎縮して、久米も八枝も田口も、もじもじしてしまう。それを察した真木は、おれかぁ、と言うと、手を止めてこちらに居直った。
「おれはいつも逃げてばかりいたんだ。若い頃は、家の跡を継ぎたくなくてアメリカに逃げ、それからも神から日本へ呼ばれているのを感じていたのに、母が亡くなるまで、戻ってくる勇気がなかった」
「日本に帰ってきて、パウロと教会を始めてからも、目立つことはすべてパウロに任せて、自分は裏方に徹していたかった。初めの頃は通訳をしなくてはならなかったけど、院卒の八枝さんが来てくれてからは、それからも自由になった」
「おれは責任から逃げていたんだ。説教をすることから逃げていたのは、自分の語った言葉の一語々々で裁かれるのが怖かったのと、人前に立ちたくなかったから。だけれども、神に呼ばれているのなら、そう長いこと逃げられるものではないね。神の言葉はむなしく天に帰ることなく、神は必ず目的を果たされるお方だから」
「ニネヴェに行け、と言われたなら、ニネヴェに行くのが一番幸せなんだね。最近思うんだ。クリスチャンとして生きるのは、漱石の言葉じゃないが、幕末の志士のような、生きるか死ぬかの覚悟を要することだ、と。キリストを愛しているから、生半可な宗教では満足できないんだ。この世での生きやすさなんて、もう大して求めてはいない。この世に残された希望なんて、主が来られることだけだから」
「なんでこんな愚かなまでに、キリストにすべてを捧げるのかと、時々聞かれるけれど、それはやっぱりさっき久米くんが言っていたように、無我夢中なまでに、神に恋をしているからかもしれない。自分の心のなかに、焔が燃えていて、それがこの世への関心だの執着だのを、とうに燃やしつくしてしまったんだ」
真木は憑かれたようにそこまで語ると、ふいと鍵盤に向きあい、なにか賛美の曲を弾き出した。そっと皆の前に置いたコーヒーが、白い湯気を立てている。 ふと、なにか考えこんでいたらしい八枝が、向かいに座る久米を見つめながら、ちいさな声で言った。
「あのとき久米さんは、あなたには真木さんやパウロさんのような覚悟はない、あなたはただの普通の女の子だ、って仰ったでしょう」
「忘れてください、八枝さんがただのひとじゃないことくらい、もう思い知っていますから」
久米が肩をすくめる。
「ただのひとですわ。ただの苦労知らずのお嬢ちゃんなのに、結婚して、ずっと年上の、覚悟の定まりきったひとたちのなかに放り込まれて、じぶんの信仰を見失っていた、ただの女の子だったんです」
「わたしは聖霊は受けていたけれど、信仰を試されたことは、ほとんどありませんでした。家で教会を開いているひとなんかに嫁いでしまって、四六時中ひと目に晒されて、真木もパウロさんもずっと高く遠いところを歩いていて、わたしはひとりで溺れていたけれど、周りの目を気にして、 溺れているともいえなかった」
「わたしの信仰にはまだ生ぬるいところがあって、心のなかにあったかもしれない炎も、消えてしまっていたんです。それでも真木の妻だからって、体裁を保とうとしていて、じぶんの偽善が苦しくてたまらなかった」
田口だけが驚いたような顔をしている。彼は八枝のことを、妻の従妹なのに、天使みたいなひとだとでも思っているらしかったので、天使にも苦しみがあると聞かされて、意外なのであろう。
「いまだってわたしに、真木のような、幕末の志士の覚悟があるかと問われれば、ちょっとないかもしれない。わたしの日常は、マルタとマリアみたいに、皿洗いだの片付けだの、もっと煩瑣な事柄で満ちているんです。そしてそれはそれで、なかなか心の砕かれる、大変な戦いなんですの」
「そういった些細なことのうちに暮らしていると、どうしても時々、じぶんの目がキリストじゃなくて、 他の人に注がれてしまうことがあるんです。家に来るひとの言動とか、デリカシーのない言葉とか、そういったものに捕らわれてしまうの。もう嫌だ、屋敷になんか帰りたくない、と思ったときに、 里の母に言われたんです。ひとびとから目を反らし、キリストを見つめなさい、って」
「でもね、一度で済むことじゃないんです。試練はなんどもやってきて、なんどでも、意識的にじぶんの目をキリストに向けなくてはいけないの。なんの波乱もない人生を送っているようにみえて、 わたしは日々キリストに砕かれているんですの」
苦しみに研ぎ澄まされた八枝は、娘時代とは比べものにならぬくらい、成熟してみえた。田口は驚いているけれど、教会育ちの灯には、八枝の苦労がありありと想像できる。パウロの妻は亡くなっているので、真木が副牧師になる前から、八枝は牧師夫人のような役割を、肩書き無しに割り振られていた。
「それでも戦い続けようと思いますか?」
真木は演奏する手を止めずに、やさしく妻の覚悟を問いただした。
「信州の祖母が亡くなる前にね、わたしに言ったんです。それでも戦い続けなさい、って。苦しいけれど、苦しめば苦しむほど、キリストに近づいていく感覚がするんです。砕かれる前のじぶんに戻りたいとは、決して思いませんわ」
いままで黙っていた田口が口を開いた。
「時々自分は、周りのひとたちだって戦っていることを、忘れてしまうんです。自分一人で訓練するのと、仲間と訓練するのでは、モチベーションが違うでしょう。いま、みんなの証しを聞いていて、鉄に研がれるみたいな、そんな気がした」
「さすが戦闘のプロは、言うことが違いますね」
久米が苦笑する。
「もうプロじゃありませんよ。あっちの世界で挫折した、中途半端な人間だから」
田口の声には過激な厳しさがひそんでいて、それをとりなすように、八枝がやわらかな声で言う。
「東京湾をみるたびに、田口さんはここを泳いで渡られたんだなあ、って感心するんですの。よくもまあ、って」
なんだかずれた八枝のコメントに、田口が苦笑しながら、渡ってはいないけど、と言いつつ、防衛大の恒例行事、遠泳を悩ませるクラゲだの潮流だのについて語った。
証し大会がうやむやになり掛けたところで、真木は手を一旦止め、すこし息をついてから、海で歌っていた古い讃美歌を、自ら歌いながら弾き始めた。
Down at the cross where my Saviour died, down for the cleansing from sin I cried....
(わが救い主死せし十字架のもと、われは叫ばん、わが罪清めたまえと……)
白いタイル貼りの台所で、灯はそれを聞いていた。コーヒーを出したけれど、みな忘れてしまって、口も付けていないようだ。そういう灯も、思い出したように、もう冷めた自分のカップに唇を付ける。へりくだって、お体裁など気にせずに? 一瞬灯はそれを押し殺そうとした。そうすれば、いままで通りに生きていける。窓からみはるかす空はもう暗い。ふたたび灯の心のなかに、押し殺せない衝動がわきあがってくる。
自らをどう処したらいいのかわからずに、灯はまず彼らに近づいた。目を閉じて賛美に浸っている彼らは、ひっそりした灯の足音に気付かない。居間の端に立って、灯も目を閉じた。まぶたの内側に見えるきらきらと光るものは、いまからしようとしていることへの確証に感じられた。溢れるように、灯は口を開いた。
「海に、行きたい」
音楽が止まり、ひとびとの視線が灯に集まる。灯は、鍵盤から手が浮いている真木を見つめて、 言葉を続けた。
「いまから海で、沈めてもらえます?」
声にならない叫びが発せられたが、それが誰なのか、灯は気にもしなかった。真木は立ち上がり、そしてすこし胸をおさえて、また椅子に落ちる。心臓発作でも起こされたら、嫌だなあ、と灯は冷静に思う。
口から口へ、海へ、という言葉が渡っていった。さあ、海へ。そのなかに、灯台へ、と冗談で交えたのは、きっと英文卒の八枝だろう。海へ、灯台へ、大きなタオルを、着替えの服を。すみれは何をしてるのか、さあ、海へ、海へ、海へ。
騒がしい部屋のなかで、真木が灯を呼び止める。ふたりは対角線上のソファに腰をおろした。真木が目配せをすると、他のひとたちは彼らを避けるように、居間を去っていく。
「あなたはもうすでに一度洗礼を受けているのだろうけど、再び覚悟を決めたなら、ちゃんと手順を踏まないと。使徒行伝の二章三十八節くらい、諳んじられるんでしょう?」
「悔い改めなさい。めいめいイエスキリストの名によって、洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」
「そう、そして、そうすれば賜物として聖霊を受けます、とも書いてある。まずは悔い改めなさい、だね。心のなかで神と話してご覧」
真木の見守るなか、灯は座ったまま祈りの姿勢をとる。頭をさげて、手を組んで。もう何年ぶりのことかもわからない。神と話すって、どうしたらいいんだっけ?
「悔い改めっていうのはね、心を変えて、今までの生き方を立ち去り、神のもとへ帰ることじゃないかな。ただ口先で、ごめんなさい、と謝るだけじゃない。自分の罪を、弱さを、その足下に投げ出して、心から、キリストと向き合わなくてはならない」
組んだ手に力を込めて祈っている灯を、真木は見守った。濡れたように黒いショートヘアが、ゆるやかにはねて、耳の近くで揺れている。なにか口のなかで呟いているらしい。面を伏せているので、真木からは、その表情はうかがえない。いつだって、せいいっぱい武装しているようなひとだった。きっと自分を前にするときは、ことさらに防備を固めていたに違いない、と真木は思う。お互い、面倒な親戚だと思い合っていたのは明らかだ。
何年も何年も、飽きることなく灯のために祈っていたひとびとのことを、真木は思った。亡くなった灯の母、灯の伯父と伯母、そして自分の妻。灯の反抗的な態度に、時に傷付き、泣かされながらも、八枝はずっと灯のために祈るのを止めなかった。あの愚直な、世間知らずの従妹、と灯が妻を馬鹿にしていたのを、真木は知っている。
灯の武装を、真木はいつも危ぶみながら見ていた。血の繋がらない分、妻よりも距離を取って見ることが出来たからかもしれない。なにかのきっかけがあれば、その虚勢は崩れてしまいそうに脆くみえた。けれどもすべてのことは、人間の都合ではなく、神の定められた時に起こるのだ。祈り求められていた時を目のあたりにしながら、真木は、いまここに満ちている聖霊に、酔うように目を閉じた。
「さあ、海へ行きますか」
しばらくしてから、真木は灯に立つように促した。この奇跡もあいまって、夜の空気は高揚している。ビーチサンダルを鳴らしながら、すみれが海へと下りる道を、大人に先駆けるようにして走っていく。気をつけて、と八枝が心配そうに声をかけると、すみれは立ち止まり、それから八枝と手をつないで歩いた。かすかな甘いジャスミンの香りが、暗い道に漂う。
半月形の砂浜に、暗い人影と笑い声が潜んでいる。国道をゆきかう光に目がくらみ、どこに人がいるのか見分けがつかない。ふいに聞こえた無遠慮な大声に、一同はさりげなく、すみれを庇うような形で歩いた。そこかしこに焚き火が燃えている。たき火したいなあ、とすみれが呟いた。灯を海に沈めるため、衝動的に出てきた彼らには、それに応える準備などない。
「なにするの?」
ただ海に行く、とだけ言われていたすみれが、当惑した顔で聞く。
「灯ちゃんの洗礼式なの」
そう答える八枝に、すみれは暗闇でもわかるほど驚いた顔をした。
「あかりちゃんは、神さま信じてないんじゃないの?」
「わたしも昔はね、すみれみたいに、神さまを信じていたの。でもね、迷子になっちゃったのよ。だけどもういちど、神さまのところに帰ろうと思うの。だからすみれみたいに、洗礼を受けるの」
すみれに近づいて、腰をかがめ、暗い顔を覗き込みながら言った。これもお体裁など構わずに、 という言葉の一環なのかもしれない、と思いながら。もとから子どもの前で虚勢を張れるような神経はしていない。自分が下そうとしている決断が、この子の未来にもたらすであろう影響を思った。それが千花さんへの供養になる、と灯は一瞬思ったが、そういえば彼女はまだどこかで生きているのであった。
どこまでもおだやかな夜だった。言いがたい思いにつつまれながら、裸の足を海にいれる。海は遠浅で、真木と灯はどんどんと遠くへ入っていく。目の前に江ノ島の灯台がみえた。海はどこまでも滑らかで、飲み込まれてしまいそうなきがする。穏やかな夜の海は、親しげなようで、なにか恐ろしいものが潜んでいる。灯はじぶんが震えているのに気がついた。
「この辺りにしておく?」
同じ思いだったらしい真木が聞く。水際で待っているひとびとは、もう小さくなっていた。水はそこまで冷たくなかった。波はなめらかに、なめらかに、砕けることなく押し寄せてくる。すこしのあいだふたりは、繰りかえす波の運動をきいていた。墨のようにすべらかな水に、腰まで浸かりながら、真木がしずかに言う。
「イエスキリストが、自分を救いだしてくださる主であると、灯ちゃんの罪のために死んで、そしてよみがえり、いまも生きておられる神だと、みんなの前で宣言できますか」
まあ、遠すぎて声が届いてるかわからないけど、と真木が余計な一言を挟む。
「はい」
その言葉に吹いてしまった灯は、真面目になろうと懸命に努力しながら答える。静粛に、と自身も口もとのふるえている真木が、自らを棚に上げていう。彼なりのユーモアであるらしいが、なかなか理解されがたかろう。
「主よ、この奇跡を感謝します。灯ちゃんがあなたのもとに、帰ろうと決めたことを。いまふたたび、灯ちゃんはあなたの名前を着て、あなたに身を捧げようとしています。どうか、過ぎた歳月を返してください。彼女があなたの光にみちびかれて、暗闇のなかを歩いていた、あの日々を。
あなたは九十九匹を置いてでも、この一匹のストレイシープを探しだしてくださいました。彼女の灯を、どうぞ神の油で満たしてください。あなたの霊に満たされて、どうか彼女のこれからの人生が、生きている限り、もうこの世のためではなく、神の国のために用いられますように」
真木の涼しい声が、水面に響く。ヨブ記と三四郎だ、と灯は思った。この奇跡の満ちた夜の空気に胸が高鳴っているのが、隣に立つ従妹の旦那に伝わってしまいそうで、灯はそっと息を吐いた。
「鼻、つまんだ方がいいよ」
灯は言われた通りにする。真木は自らの手を、鼻を塞ぐ灯の手にあてると、声をあげて言った。
「主がぼくに与えてくださった、福音を伝える者としての、ささやかな権限によって、主イエスキリストの御名で、灯ちゃんに洗礼を授けます」
その瞬間、灯は暗い海に沈められた。十字架にかけられたキリストの死のように。キリストの墓のように。ともすれば浮いてしまいそうな体を、完全に浸そうと、真木の手で強く水中に押しこめられる。
死ぬ、と思ったとき、ふいに真木の手から力が抜け、灯は浮かびあがるように、海面に顔をだした。真木の手を借りて立ち上がりながら、殺されるかと思った、と呟く。
「そう、古い灯ちゃんは、いまさっき殺されてもういない」
真木が言う。まあ、副牧師だから、洗礼式なんてほとんどやったことないし、しかも海水で浮きあがってくるから、やりづらかったのもあるけど、と聴かされたくもない台詞が後に続く。
沖を振り向くと、ちょうど暗闇に灯台の光のまたたくところだった。風が磯の匂いを連れてくる。砂浜で、みんなが待っていた。波のゆく方向へと、ふたりは歩いていく。足元の下駄が砂に沈んだ八枝が、びしょ濡れの灯にタオルを渡す。黒いコットンボイルのブラウスは、たっぷりした布地がすべて肌に張りついてしまっていた。タオルで体を包んでいると、田口が近づいてくる。
「ありがとう」
「おめでとう、じゃなくて?」
口数の少ない夫の、万感のこもった一言を、軽くあしらってしまったことに、灯は後悔した。いつだってわたしは、どこか上滑りに生きてしまうのだなあ、こころのなかは、こんなにもあふれているのに。 すこし反省して、灯は周りを見渡すと、ささやかな声で言った。
「わたし、随分あなたを苦しめたわね。ごめんなさい」
「それでもこうなると、ずっと信じていたから」
それに、と田口が言う、灯はいくら自分で堕ちようとしていても、いつもどこか守られているふうに見えたよ、と。誰と比較しているのかは、聞くまでもなかった。
「こっち」
という声の方を向くと、久米が知らないひとと、仲良く焚き火に当たっていた。まぶしい火の影になって、その顔はよく見えない。日本人らしからぬ社交性を誇る久米が、そのひととのあいだに築いた親しげな雰囲気に寄せられて、灯は濡れた体を暖かな火にかざす。
「この方、牧師さんなんだって」
一同が火の周りに集まると、久米がそのひとを紹介する。
「いやあ、夜の海に来たら、洗礼式に会うなんてね」
そのひとが言う。
「よくまあ、夜の海でねえ。まだ五月なんだから寒いでしょう」
「いえ、水は案外、冷たくありませんでした」
真木が真面目に答える。あなたは風邪を引きやすいのだから、と心配げな八枝に物陰で着替えさせられた彼は、もう乾いた服を着ている。そんじょそこらで着替えるわけにいかない、レディの灯は、 まだタオルの下が冷たい。
「すごい覚悟だなあ。……ほら、お嬢ちゃんも当たりなさい」
そのひとは、焚き火に惹かれて、砂上の城作りを止めてやってきたすみれを、自分の傍らに誘った。火の上にかかる網に、するめが載っていて、香ばしい匂いがする。
「おつまみですか?」
田口が聞いた。
「いや、わたしは飲まないから。焚き火と言ったら、するめじゃない?」
変な牧師が言う。夜中の海で、するめを炙る牧師なんているかしら。どうぞ、食べてみる? と言って、そのひとはするめを取ると、いくつにも裂いて皆に勧める。気圧されていた一同は、それを取ったり取らなかったりした。
「どうして、夜の海で洗礼式なんかしてたんですか?」
橙色の火越しに、そのひとが聞く。声の感じが、ちょっと老人めいている。。するめを差し出したときの手は、骨ばって皺がよっていた。それに反して、あかるい、どこか無邪気な声。
「あかりちゃんが洗礼をうけたの。あかりちゃんっていうのは、わたしのママなの」
するめを噛むのを止めて、すみれが答える。教会育ちのすみれも、人怖じをしない子どもである。
「ほう、ぜひ聞かせていただきたいですな、灯さんの証しを」
焚き火を挟んで、一瞬そのひとと目が合う。なんだか誤魔化せないような目だった。灯は腹をくくって語りはじめた。
「若い頃、わたしはいつも、自分を従妹と比べていたんです。そこにいる彼女ですけど、生粋のお嬢さまで、なんの影もなく、ただ幸福なひとで、ほんとうに素直にいままでキリストと生きてきたひとなんです。それに比べてわたしは、人生の複雑な部分を見たからか、ひねくれていて、どうしても従妹のように単純に信じきれなかった」
「その頃こう思っていたんです。家族のなかに、表裏一体のふたりがいる、って。ひとりが素直なら、もうひとりにはもう素直になる場所は残されていない。それは兄弟かもしれないし、姉妹かもしれない。わたしにとって、それは従妹の八枝だったんです」
「神から離れて、わたしはさ迷ったのだけれど、でも結局神がいないと信じきることができなかった。神がいないなら、家族たちの信仰は完全に否定されてしまう。彼らの生き方には、清いものがあって、それが無駄だとは言いきれなかった。だからわたしは、せめて自分だけは呼ばれていない、と考えて逃げつづけたんです」
「あちら側にいるあいだ、ずっと胸のなかにざわざわとする、重くて苦しいものがあったんです。それから、あの夢。歯が抜けていく夢を、なんどもなんども見せられていたの。なにかが失われていく焦燥感が、こころのなかに漂っていて、ふとした時によみがえってくるんです」
「どれだけ神から離れても、どれだけ罪に汚れても、小さい頃に覚えた聖書の言葉は、わたしを離してくれなかった。いつも、ふとした時に思い出してしまったんです。もう祝福を受けられるような人間じゃないのに。すべて重荷を背負っているひとよ、わたしのもとに来なさい、とか。でもわたしはもう、キリストのもとになんて帰れない。帰れないんだから、こちらに骨の髄まで染まってしまった方がいいんだ、って。わたしはキリストを裏切った人間だから、帰ることなんて出来ないんだ、って」
「けれども神は、どこまでもどこまでも、わたしのことを追いかけて来たんです。母が亡くなった時、もうわたしをこちらに繋ぐものはなくなったと思ったのに。神から離れるために結婚した夫さえも、神は呼んでしまったんです。そして気付けば、逃げ出したはずのクリスチャンホームが、わたしの周りに出来上がっているの。毎週うれしそうに教会に出かけていく娘を見ていると、昔の自分を思いださせられて。今日の昼間、この子が洗礼を受けているのを見ながら、わたしは一体何をしてるんだろう、ってつくづく思わされたんです」
「砂の上に、自分の罪を書き出していたの。わたしはこれだけのことをしました、それでもまだあなたはわたしを呼ぶ気ですか、って。文字を書くたびに、風がそれをさらっていってしまうんです。まるで、あなたの罪など初めから無かったことにしよう、と言われているみたいに。それでわたしは、キリストの足元に身を投げたんです。もういちど、わたしをあなたのもとで、暮らさせてください、って」
沈黙のなか、焚き火のはぜる音が響く。頬にふれる風はかすかで、ほんのすこし水分を含んでいる。灯は目をあげて、そのひとを見つめた。そのひとは、どこか祖父に似ていた。お祖父ちゃん、 と思って、灯は八枝に目線を送る。そのことに気づいていないらしい八枝は、灯の視線を受けて、 なんだか済まなそうな表情をした。自分の存在が灯の妨げになっていた、と聞かされたばかりだったので。
「灯さんは、キリストを愛していますか?」
そのひとは唐突に聞いた。やさしく、問いただすように。
「はい、愛しています」
灯がそう答えると、そのひとはもう二回、その質問を繰り返した。そのたびに、はい、愛しています、と答えているうちに、はっとペトロの話を思い出して、このひとは本当に人間だろうか、と灯は不思議に思った。
「なんだか、ガリラヤ湖の畔みたいでしょう?」
その思いを見透かしたように、そのひとは言った。灯はさきほどから、暗い空にふわふわと上がっていく、火の破片の行くすえを見定めようとしていた。よろこびか、のぞみか、ふしぎな感覚が、夜の砂浜を包んでいる。だれもが口を開くことをためらっているようだった。空気はそれほどに繊細で、おぼろだった。そのひとがふわりと笑いながら言った。
「おかえり、やっと帰ってきたね」
そのときなにか心に溢れるものがあったけど、それは言葉にしがたい感覚だった。初め灯は、静かにじぶんを抑えようとしたが、抑えきれるようなものではなかったので、ついにそれを手離した。そこにいる誰もが、それが何なのかわかっていた。けれどそこを覆っている聖霊はあまりに濃密で、お互いのことなど、構っている余裕はなかった。ひとりひとりのうちにキリストが溢れていて、そこが夜の海なのか、それともこの世ではない領域なのかさえ定かではなかった。
閉じていた瞼を開く前に、灯は思った。これでもう灯に油が入っていないなどと、皮肉られることはないだろう、と。三十六年生きてきて、はじめて心で神を知った。それは臓腑に染み渡るような、あたらしい感覚だった。潮風で湿った睫毛をあげたとき、焚き火を囲むひとびとが一人足りないのをみて、やはり、と思った。けれどあたらしいひとが、たったいま、灯のなかに生まれたのだった。