仮庵の季節に
たくさんの命が失われた、ことしの仮庵の祭り。わたしも、うつくしいひとを失った。
スコットともよばれる仮庵の祭りは、七日間続く。エジプトから荒野へと、神はイスラエルの民を連れ出して、ともに天幕のなかに宿られた。祭りの期間のあいだ、ひとびとはテラスや庭に仮小屋を作って、そこに寝泊まりする。これは喜びの祭りである。七日間、喜び祝うようにと、聖書は命じている。
ことし、わが家で作った仮庵はこんなかんじだった。では、ご覧いただきましょう……
そう、本物の仮庵とは言えない。リビングの天井に、麻紐を張り巡らせて、そこに粘土でつくった葡萄や星を吊るしただけ。この葉っぱは、お義母さんが庭で収穫して持ってきてくれた。それがなかなか野趣を添えていた。
その下で、家族で食事をした。オーケーで安かったラムステーキに、赤ワインとバターのソースを掛けて。添え物はマッシュポテトとサラダ。それがわたしたちの仮庵だった。
神さまとともに宿る季節なのだ、とアメリカの牧師が言った。とくべつな季節、喜びの季節。ちょうどアメリカの教会では、キャンプミーティングの季節でもあった。
けれど、それが始まろうという前日に、アメリカの教会で、ある婦人が亡くなった。わたしをホームステイさせてくれた家のひとだった。二週間前に見つかった、骨ガンで。六十をすこし越えていただろうか。
もう何十年も前に、死んでいたかもしれないひとだった。二十になるかならないかのときに、彼女は交通事故で重症を負った。生きていたのは、奇跡だった。一生病院を出られないだろう、という医者の予言は、祈りと、癒しと、諦めを知らないリハビリとで覆されて、それから何十年も、彼女はほとんど普通の暮らしを送っていた。けれど頭蓋骨と脳の一部は、ずっと損傷したままだった。
わたしの知る彼女は、歩くことと、言葉を明瞭に発することとに、障害があった。英語の不自由なわたしと、発音の不自由な彼女とは、いつもお互いに伝えあいきれなくて、いつもハハハと笑い合って終わった。どうしようもないわねえ、これじゃあ。
いつも陰にいるようなひと。歩くときは足を引いていて、それなのに気づけばお皿を洗ってくれている。いつもひとに仕えているひと。三年前に、久しぶりに会ったときだって、台所でずっと仕事をしていて、ぜんぜん顔を合わすこともできなかった。
おもい出すのは、わたしがまだ二十の頃、ラメがついたモーヴ色のドレスを買ってきた日のこと。あんなドレスを買ったって、日本ではいちども着ることはなくて、結局フィリピンのひとにあげてしまったけど、でもあの日買ったのは、ドレスという夢だったかもしれない。四十ドルもしなかった筈だ(あの頃は円が今より遥かに強かったのである)。
「フーセイが買ってきたドレスをご覧なさいよ!」
そう言われて、わたしはドレスを纏って、彼女にお披露目した。シフォンの裾をかるく持ち上げて。彼女は目を細めて、まるで自分のことのように、その華やかなドレスを喜んでくれた。わたしの若さと、軽やかさと、未来への希望と、きらきらのドレスと、カーペットに舞い落ちる大量のラメとを。うれしそうに、わたしを見つめていた。
でもワジー、わたしは結局、あのドレスを着なかったの、ごめんなさい。
ワジーは、この世の語る成功とは縁遠いひとだった。障害のせいで、ひとから見下されたことだってあったろう。制約だらけの人生、それなのに、彼女はいつも愛にあふれていた。ひとに仕えることを、喜びにしていた。
ワジーの生き方は、イエスさまの生き方だった。それはこの世の生き方の真逆だった。仮庵の季節に、彼女はゴールテープを切った。「よくやった、忠実な良い僕よ」と神さまに称えられながら。
いま、ワジーは事故に会う前みたいに、軽やかな足どりで、よく回る舌で語っているのだろう。うつくしく、若返って。まばゆいばかりの王冠を付けて。
そう書きながら、わたしは泣いてしまいそうになる。だって、わたしが時として眩惑されそうになる、この世での王冠を持っていなかったワジーが、いま、なによりも輝かしい王冠を得て、幸せに満ちあふれているのだもの。わたしの価値観を、根底から揺るがして、この人生がなんなのかを、ワジーはあちらからわたしに教えてくれようとしている気がする。
そんな仮庵の祭りの最終日に、なにが起きたかは誰もが知っている。ハマスがイスラエルに大規模攻撃を仕掛けた。それはシムハットトラーの日だった。みことばと共に喜ぶ日、とでも訳そうか。
神さまが何かをしているらしい、という大きな絵を、わたしは信じている。津波のように押し寄せる悲劇を、いつも感じ続けていようと思いながら。それでも神さまの描く絵も、殺されたひとたちの痛みも、大きすぎて、わたしには捉えきれないのだけれど。
「天でなされるように、地でもみこころがなされますように」
と、わたしは祈ることにする。神さまにわたしの指示はいらない。わたしはなにも知らない羊。牧場の草を食んでいるときに、某国からなにかが飛んできて、Jアラートが鳴ったとしても、わたしは恐れない。ふと顔をあげれば、そこにわたしの羊飼いがいるから。羊飼いがわたしを守ってくれている。わたしはなにを恐れることがあろう。
この数日間で、重症を負ったひと、これから一生トラウマと障害を負っていくかもしれないひとたちが、何千人も生まれた。
しかしワジーが、わたしに教えてくれている。いまは宝石に包まれて、王座にすわっているワジーが。わたしに、とっても大切なことを。わたしの頭を、価値観を、ひっくり返そうとしている。ワジーには、わたしには見えないものが見えている。あちらにいる彼女には、神さまの視点が見えるのだ。
わたしはこのまとまりのない文章を、どう終わらせたらいいのかわからない。ただ、わたしが、言葉だけでなくて、ほんとうに、彼女みたいに、キリストと歩めたなら、と祈るだけ。