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日々、死ぬこと



 猛暑お見舞もうしあげます。

 太陽は地上を焼くことをゆるされた……という聖書の一節が、あたまに木霊している夏、ふたたび、です。去年も暑かったから、今年は暑いねえ、とも言えない。みなさま、ご無事でいらっしゃいますか。

 なにも書けないなあ、と思って、なにか下書きに眠っていないかしら、と探していたら、下のエッセイが見つかりました。自殺願望と勘違いされたら困るな、と思って、投稿するのをためらっていたらしいのです。

 でも、そういえば、きょうの牧師の説教も、おなじテーマだったそうだし (わたしは掃除と子守りをしていて、聞いてなかったけど)、いまさらだけれど、投稿してみようかとおもいます。あたらしいエッセイ本の推敲をしながら生きているので、なんだかあたらしく書くのが億劫になってしまった。こんどの本のなかにも、これに似たエッセイがあります。

 それにしても、暑いですねえ。どうかご無事で。みなさまが台風からも、暑さからも、守られますように。災害から、暗やみから、主が守ってくださいますように。

             ふさえ


 



 『わたしは日々、死んでいます』
  第一コリントの手紙15:31

『わたしはキリストと共に、
十字架につけられています。
生きているのは、
もはやわたしではありません』
ガラテアの手紙2:20



 きっと死に足りないのかも。キリストがわたしを殺そうとする手は、ゆるまる気配がない。もう殺された、と思うたびに、いつのまにかわたしは、むくむくと生き返ってくるから。

 「もう死んでしまいたい」

 と神さまに愚痴を言った瞬間に、こう答えがあった。

 『死になさい、そうすればわたしが生きるから』

 それは聖書に叶ったことだ。わたしのすべては、剥ぎ取られなくてはならない。わたしに権利はない。すべてキリストに捧げた。憎む権利もなければ、裁く権利もない。

 わたしという鉱物は、キリストによって、研かれなくてはならない。そのすべての面を。

 それは苦しい、苦しいことである。自我を殺されるのが、辛くないはずがない。けれどまた、とても楽なことでもある。だんだん軽くなっていく。キリストにゆだねれば委ねるほど、責任もまた、彼の肩に移っていくから。

 時にわたしの内なるひとが、ヘリウムみたいに軽くなって、空に浮いてしまうんじゃないかと思うことがある。しかし重石のような自分が、ふたたびよみがえる時もある。

 だからパウロは言ったのだ、日々、死ななくてはならないと。これがキリストに従うということ。自分の十字架を背負うということ。

 毎日がその繰り返し。いつの日か、ほんとうに身体が軽くなって、あちらへ行く日まで、毎日。


 




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