迷い
わたしは体力のある方ではなくて、どこかなんだかこんな願望を抱いている。ちいさくも整った佳品を作りあげられたらそれで満足してしまいたい、みたいな。ささやかな小品を残したひと、っているじゃないですか。小説らしいものを書いてみてわかったのは、ひとつやふたつ書くことは容易くともそれを続けるのはとてつもなく精神力のいることであろう、ということ。
「職業としての小説家」という村上春樹の本を手に取った。わたしはそんな大それたことは望んでいないからすこし躊躇ったけれど、彼のエッセイや翻訳はいくつか読んでいてことばが好きだから、彼のはなしを聞いてみたかった。小説も読んでみようと思ったのだけれど、クリスチャンのわたしにはすこし性的描写みたいなのがどぎつくて棚に戻してしまった。だからわたしは最近の本が読めなくて、夏目漱石だのオースティンだのをさ迷っている。ごめんなさい、わたし生きている作家、ほとんど読んだことありません。
小説を書くのが愚かしいことだというのも、ずっと考えていた。説教という愚かさ(foolishness of preaching) とパウロが新約聖書で言っているけれど、小説にも同じような愚かさを感じる。説教が聞いてくれるひとがいなければ成り立たないように、小説だって読んでくれるひとがいなければ成り立たないし、だいたいそこまでひとの時間を取ってまで伝えたいことがなければ傲慢じゃありませんか。
わたしにはああなんだよね、こうなんだよねと共有したい思いが沢山ある。聖書の神はわたしがものを書く動機と推進力だ。でも「宗教的なこと」を「信じているひと」が書くから決して世俗的に受け入れられはしないのもわかっている。それでもこの書きたいという気持ちを、もしわたしが他の動機のために、この世界に受け入れられるように使ったとしたら、わたしはどんどん溺れて沈んでいく自信がある。なけなしの文章能力も、あるかもわからない才能だってすべてかっぴかぴに乾ききらせてしまうと思う。堕ちていって書けなくなるだろう。だからわたしが創造主のために持っているちいさなタラントを用いるのは必然なのだ。だれかに届けばいい、とは思うけど。
書くことをふたたび始めたとき神さまに言われた、他のひとの通らない道を行くことになるぞと。わたしはよくわからないから、ただ足下を神の灯に照らされながら、暗闇を一歩ずつ手をひかれて進んでいる。見えているのは一歩先くらい。いま書きたいこと、次に書きたいことくらいはわかるけれど、でも正直それをどう表していいのかもわからない。小説なんか止めてしまった方がいいかとも思う。どうすればこれを表現できるのかわからない。
村上春樹はとてもためになった。最初のころ登場人物に名前を付けられなかった、という気持ちも共感した。初めの頃小説を書くのは裸を晒すかのように感じたとも言っていて、それも同じことを思っている。
彼はものを書く傍らで翻訳をして天秤を均しているらしい。 わたしにとって教会でさせてもらっている通訳がそれに当たっている。通訳は生演奏の一部になるみたいなかんじだ。即興でことばをもって余白を埋めていく。ふと自分から出てくることばを高めるのに、ものを書いていることは役に立つし、そうやって即興的なことば遊びをすることで、わたしのなかのことばも豊かになる。とっても楽しい。
まだ読んではいないのだけれど、ヴァージニアウルフの「自分だけの部屋」についてもよく考える。ほんとうに腰を据えて物を書けるような環境にわたしはいない。資料を集めようにも二歳男児をつれては図書館にさえ入れないし、机もなければパソコンさえ開く余裕もなく、スマホのメモ機能を使ってすべてを書いている。便利な時代だ。取材にも行けないしこんなでやっていけるのかもわからない。
モンゴメリは牧師夫人をしながら作品を書いていた。未婚のオースティンは兄弟の家を転々としながら。小説を書き始める前に神さまに言われた。わたしが求めているのはあなたの作品ではなくてその心が研ぎ澄まされてわたしを映しだすことだ、と。わたしの作るものが焦点なのではない、わたしの心が創作を通じてどれだけ神に近づけるかが焦点なのだと。
「夏目漱石の妻」のドラマを見たときに思った。生活のすべてを犠牲にしてまで何かを創ることに意味はあるのかと。わたしは創作を神としたいわけではない。創作を持って神に仕えたいだけで、そして妻としての役目と母としての役目も神から授かっている。ものを書くことはその自然なバランスのなかに収まらなくてはならない。そしてなによりも神を第一に求めること、そうすればその他のすべては与えられるのだから。
うちにいるのは男の子なので、書くことは精神的に子離れすることでもあった。完全母乳だった息子はとにかくママっ子で、身体的には決して離れてくれないので、お互いがさっぱりとした関係であるためにもわたしがなにか他のアイデンティティを見つける必要があった。まだ二歳だけれどもホームスクーリングを予定していてこのままずっと家で育てていくのだから、べったりしてはいたくなかった。
これを書きながら感じたことがある。それは繰り返しになるけれど、神が作ろうとしている作品はわたし自身の心だということである。「愛はいらだたない」という聖句を昨晩耳に挟んだ。理不尽な二歳児との暮らしに自分の創作とそのほかのすべてを詰めこんで、わたしは眼鏡をむしり取られ、牛乳がほしいちがうやっぱりジュース!とせがまれ、注いだばかりの牛乳を床一面にこぼされ、髪をひっぱられ、叩かれ蹴られる毎日に忍耐を磨り減らしていた。
そのことばはすっと入ってきた。押し付けられるのでもなく、諭されるように。理不尽を言われて言い返さぬことを選んだとき、それは砂を噛むような鉛を呑むような重さをもってわたしに迫る。肉体をもったわたしはドアを叩きつけるでも言い返すでも噛み返すでも、リトルミイみたいにして反撃しようとする。でもそれをそのまま呑み込むとき、口一杯に飲んだ砂ははらわたに灰のようになり、わたしを砕き、粉々にしてから、清くする。
自分の肉ではなくて、わたしの内に宿るイエスの霊がわたしの表面に表れるようになるためには、そうやって砕かれなくてはいけない。わたしは衰え、彼は栄えねばならない。食器を洗いながら穏やかに子どもと接している自分にふと気付いたときに、これはわたしの創りだすどんな作品より貴いものだと悟った。これが神の求めているものだと。
「彼岸頃迄」を読みはじめた。まだカラマーゾフも夜明け前も途中だけれど、わたしは何冊も何冊も同時進行で読むという変な癖がある。やっぱり漱石は面白い。村上春樹が言っていた、漱石の話しには「ここでこういう人物が必要だから出しておこう」というような適当な脇役が決してでてこないって。わたしはぼんやりで空っぽな人間だから、いまはすがるように聖書を読んで、それから少しずつ買ってあるたくさんの積ん読を片付けていくのがいいのかもしれない。迷いという題を付けてみたけれど、結局ここで終わろうかしらというところに来たって、わたしはまだ迷っている。そんなかんじです。
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