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いびつな真珠



 はたちになったとき、母が真珠をくれた。一連のものと、すこし小粒な三連のものと。いつの昔か、祖母が母に買いあたえたネックレス。古いけれども良いもので、二十代のわたしが葬儀に付けていくと、安物の喪服に、首飾りだけ浮いているような気がした。

 祖母は宝石が好きだった。宝石の街、甲府の近くに住んでいたからだろうか。紫水晶も、わたしはダイヤだと思い込んでいた光る石も、サンゴも、象牙も、それから金色にひかる南洋真珠も、祖母の宝石箱にはなんでも詰まっていて、ちいさな頃わたしは、それを引き出してきては「まァたふさちゃんは、宝石箱をいじってるのけ」と呆れられていた。

 なかでも、あの金色の真珠はみごとだった。ずっと糸替えをしないので、もうばらばらになっている。祖母は、本物とイミテーションの両方を持っていたくらいに、あれが自慢だった。ながい、オペラと呼ばれる丈のもので、それこそオペラを特等席で見に行くことでもないかぎり、付けられはしないだろう。わたしはこのまえ、念願のオペラデビューをしたけれど、会場は映画館。METのライブビューイングだった。ポップコーンを食べながらみるオペラでは、あんなネックレスは縁がない。祖母はどこに付けていったのだろう。

 それから、ずっと不思議におもっている真珠がある。それは黙示録の21章にでてくる、あたらしいエルサレムの街の門である。エメラルドやサファイヤや、ペリドットなどでかがやく城壁に、十二の門がある。すべて真珠でできていて、それぞれ一個の真珠で作られているという。どうしたら、あの丸い真珠が、門になるのかしら。まんなかに穴が開いているのかな、逆にしたUみたいに歪んで、伸びているのかな。それが昔から、ふしぎでならない。

 そう、真珠はすべてが丸いわけじゃない。バロックパールというのがある。丸くはない、歪なかたちの真珠。養殖のものは、出来損ないみたいなかんじがして、わたしはあまり好きじゃない。でも子どもに買いあたえた、小学館の「岩石・鉱物・化石」の図鑑に、天然のバロックパールを使った、アンティークジュエリーの写真が載っていて、わあ、いびつな真珠もきれいだなあ、と思った。

 それは半身半魚の、ポセイドンの息子トリトンをかたどったペンダントである。彼の胴体は、バロックパールで出来ていて、身体のほかのぶぶんはエナメル細工。魚になった下半身には、ルビーやエメラルドがちりばめられている。手にはおおきなガーネットの盾、馬のような足の下には、丸い真珠がゆれている。十六世紀のフランドル地方で作られたらしい。

 じぶんのなかに入りこんだ異物を、にじむようにかがやく真珠層でつつみこんで出来たものが、真珠だという。なにかが入ってくる。そこが痛む。それを癒すため、みずからを守るために、うすい膜で覆っていく。にんげんが怪我をしたときに出る、浸出液みたいなイメージだろうか。かさぶたを作る、あの黄色っぽい液。

 そしていびつなバロックパールは、核となる異物に、ほかの異物がくっついて、ゆがんでしまって出来るのだそうだ。それはすこし、わたしたちに似ている。生きているあいだに、まん丸には育てなくて、ここあそこに、痛みを感じている、わたしたち。

 きのうの夜、そういう感覚がしたのだ。わたしは、傷ついたり、赦したり、忘れたり、喜んだりしながら、浸出液におおわれていく。形は、とてもいびつ。アン・モロウ・リンドバーグが、牡蠣に例えていたけれど、わたしもそんなふうに、いろんな方向に伸びて、ふしぎな形になっている気がする。

 けれども痛みが、あのうつくしい真珠を作りだしている。涙になぞらえられる真珠は、苦しみに目的を、意味をあたえてくれる。苦しむことの意味、ということばを、ずっと考えているのだけれど、それは真珠に近いかもしれない。十字架のみちをゆくこと、こころを砕かれるみちをゆくことは。

 けれどこの感覚、浸出液がにじみでて、傷が覆われてゆく感覚は、そう悪くない。そういう瞬間、痛みは歓びにかわる。苦しみに目的を見いだしたからだとおもう。みこころによって苦しむひとは、喜んでいなさい、と書いてあるみたいに。

 わたしたちは、真珠をつくっている。すこし歪だけれど、この世にふたつとない形で、あのかたがすべてを売り払って、買い求めてくださったほどに、貴い宝石である。神の国は、あなたのうちにあるのです、とあのかたが、おっしゃっていたっけ。

 


 

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