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クラシックの定義とは
果たして如何に?
お題企画の
初めて買ったCD、それはこちら。
シュトラウス男声合唱曲集。
最初の発売分を購入しましたが、のち3曲が追加され再発売されたので買い直し。現存するのはこちら。
「美しく青きドナウ」が2種収録されているのがそのため。
伴奏も歌詞も違う。
元の詩は「青きドナウ」の言葉などどこにもなく
「お百姓さんは~、政治家は~、芸術家は~」とまぁ、まるでクレイジー・キャッツ「ウンジャラゲ」
これではあまりにと新たに付けられた歌詞がもうひとつ収録されたもの。
こちらはドナウを讃える叙情味溢れたもの。
それにしても、なぜ最初の歌詞がこのようなもの?
そりゃそうだ。クラシックが当時からクラシックだったはずもないワケで普通に大衆に流布していた音楽。
それこそシュトラウス兄弟は当時のクレイジー・キャッツ的存在と言っても過言ではないかもしれない。
かくいう自分も、クラシックをクラシックとは思っていなかったような。
定形の楽譜があってそれを忠実に再現するのを求められる。
とどのつまりそれがクラシック音楽の定義となるような。
「古典」という意味であるが同時に「規範」という意味でもある。
そもそも楽譜すら存在せず、スタジオで即興で録音される。そんな曲は多い。
それが19世紀、には一音たりとも余すところなく記譜されていた。
否、出版ごとに相当な違いがあったりするのも常。
それどころか、即興で弾かれたものが次もまた同じように弾かれる保証などない。その都度変わるのが当然で、たまたまその一例が後世に残されたにすぎない。
録音のない時代には譜面が販売されることが収益の柱。
ならば様々な編曲が出回るのも当然。
そう考えると定形の権威ある版として遺される方がむしろ稀有な例かもしれない。
件のシュトラウスのウィンナ・ワルツにしても、自筆スコアが残されたのはほんの数曲にすぎず、多くは後世に出版譜やパート譜から研究者、校訂者によりまとめられたものであるそうだ。
ウィーン・フィルハーモニーのニューイヤー・コンサートの膨大なレパートリーもそうした作業の結果。
よく、ピアノ習っている子どもなど、まず楽譜通り弾くことを求められる。
楽器を学習し、習得する上でそれは大事だ、しかしそれがすべての要素ではない。もっと自在な表現があって然るべきところ。
なので、そこばかりに焦点当てられることが、衰退の一因でもあるのではなかろうか。