『この世界の片隅に』評

原作漫画

「戦争もの」というジャンルが、いかに我々の(正直に言えば私の)認識を限定してきたか、ということを思い知らされた。

この漫画は、親しみやすい話題や絵柄に反して、決して「わかりやすい」作品ではない。非常に注意深く読み進めないと、そこかしこにとんでもないことがあっけなく、さらりと描かれている。それと同時に、日々を生きる人々の感情の機微が、これもまたうっかりしていると見過ごしてしまいそうな控えめさで、至る所に散りばめられている。

人間は、かくのごとく逞しく、かくのごとく繊細である。世界は、かくのごとく大きく、かくのごとく小さい。

この、極めて高い水準の「注意深さ」を読者に要求すること、そのことがこの作品を、幾多の「戦争もの」から明確に一線を画すものたらしめている断崖となり、さらには、読者に「戦争もの」というジャンルそのものの欺瞞をつきつける刃となっているのだ。

このような作品の設計は一体何を意味するか。それは認知科学的観点から、この作品が、情報でもコンテンツでも体験(ユーザーエクスペリエンス)でもなく、「態度の浸透」とでも呼べるようなものだということである。

この作品を読み終えた後、世界はもはや同じようには体験され得ない。それまでにない水準の「注意深さ」を、この作品によって読者は訓練され、身につけてしまうからである。 宮台真司は「世界」に対しての「世界体験」という概念を強調しているが、その枠組で言うと、「世界体験のOS」を入れ替えるような機能を、この作品は持っている。「態度の浸透」とはそういうことである。

コンテンツは一般に、自分の外側にあると理解されるが、世界体験のOSは自分の内側にあり、自分そのものである。この、「コンテンツ概念の超越」は、上述の「ジャンル概念の超越」と連動する。コンテンツの座標平面の上にしかジャンルの境界線は引けないからである。

こうの史代は、私たちを後戻りさせない、恐るべき設計者である。


アニメーション映画

多くのファンを怒らせるであろう言い方になってしまうが、映画を見て私は、片瀬監督のことを「怖い」と思った。極めて冷徹で、残酷で、類まれなる設計能力の持ち主である。さすが宮﨑駿の下で仕事をしていただけのことはある。

彼は、音響効果によって観客に、金属に引き裂かれ飛び散った柔らかい肉片の痛みを感じさせることに成功した、初めての映画監督ではないだろうか。

あの音響効果は非常に高い技術水準で、そのこと自体も評価に値するのだが、それは実は本質ではなくて、あの音響が、あの映像と組み合わせられていることが驚愕に値するのである。

あの、手描きの風合いを活かした思わず肌を寄せたくなるようなタッチの絵(=柔らかい肉)に、あそこまで鋭く、速く、重い音響(=金属)が被せられてくるとは誰も予想しない。日常世界において重火器が用いられることの凄まじい「痛み」を、映画で(映画以外ででもだが)初めて体験した。

あれが、あの絵ではなくて映像もハリウッドの戦争映画だったり、バイオレンス系のアクション映画だったりしたのならば、観客の側に「ここはそういう世界なのだ」という心の準備、構えができているのでここまでの凄まじさを感じさせることは無かった。

これは一例だが、このような、感情の慣れ、準備を許さない設計がこの映画には全編に渡って埋め込まれていて、「柔らかい肉」は幾度も「金属」に引き裂かれる。物理的にも、心理的にも。

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