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ドスケベ条例と正義論について

ぬきたしをプレイしていると、ふとドスケベ条例について考えてみたくなった。この単純な疑問がこの記事を書こうとした濫觴である。この記事では二部構成となっている。第一部ではドスケベ条例の持つ潜在的な力を正義論を駆使して明らかにし、打倒しようと試みた文章である。続いて第二部では私たちの心に内在している無意識の偏見からどう脱するか綴った文章である。


そもそもぬきたしとは何なのか?ドスケベ条例なんて卑猥な名前の条例とは一体何なのか?ハメドリ君がうざい。なんて思う人は多いだろう。まずはそこから概説していこう。


そもそもぬきたしとは2018年にQruppoより発売されたADV「抜きゲーみたいな島に住んでいる貧乳はどうすりゃいいですか?」の意であり、エロゲーである。このゲームは青藍島という太平洋に浮かぶ常夏の架空の島で主人公がエッチなことから逃げるために奔走する話である。余談だが翌年の2019年にぬきたし2が発売され、コミカライズ化もされている。また、2024年にぬきたしのアニメ化が発表され、インターネット上が大いに盛り上がりを見せた。既に発売から数年が経っているにもかかわらず、現在も多くの人に愛されているエロゲーも稀であろう。これもよもやま話ではあるが、アニメ化でより多くの人たちを虜にしてほしいものだ。と切に願うばかりである。


さて、本題に入っていこう。ドスケベ条例とは何なのか?ドスケベ条例とは前述した青藍島で施行されている条例の名称である。このドスケベ条例を一言で言い表すのならば不特定多数の人と自由にドスケベしなければならないという条例でありある人から見れば至上のユートピアであり、別の人の視点では大いなる苦しみを感じるだろう。では主題のもう一方である正義論とは何なのか?


正義論とはジョン・ロールズが1971年に上梓した論理学的問題である。正義論とは何かと一言で表すなら功利主義の否定である。功利主義とはまた簡単に言うならば多くの人の利益が優先される考え方である。功利主義を代表する言葉で「最大多数の最大幸福」等が有名だろう。

このなんてことない二つの事象に私はつながりがあると見た。荒唐無稽だ、なんて思う方もいるだろう。しかし、この点と点には線で深く繋がっているのだ。

ではまず、ドスケベ条例が持つ功利主義的側面を説明しよう。

ドスケベ条例は功利主義を内在している。そのため作中の至る所で性行為が行われているようだが、功利主義には問題が幾つか存在する。それはLGBTといったセンシティブな問題を等閑視していることである。主人公の妹である橘麻沙音(あさちゃん)が同性愛者であり2からの登場である秋野水引(水引ちゃん)がトランスジェンダーと性的少数者が作中に登場する。この等閑視が原因で2では大変なことになっている。現実世界でも同じような苦しみを胸に抱き続けている人も多くいるだろう。また、ドスケベ条例はヘテロノーマティヴィティが基となっている。ヘテロノーマティヴィティとは男は女を愛す、女は男を愛すといった異性愛規範と呼ばれる概念である。こうした概念のもとに青藍島がユートピアのように感じられるが、LGBTである性的少数者にヘテロノーマティヴィティは適用されない。適用されないが故に苦しみは永続的に発生する。ではどうすれば彼ら、彼女らの意向も汲み取り全員が幸せに暮らせるのだろうか?

そこで必要になってくるのは先程説明した正義論である。

正義論では平等や公平を実現させるための考え方であり、ヘテロノーマティヴィティといった功利主義的な考え方とは一線を画す。また、正義論には無知のベールと云う言葉がある。この言葉もドスケベ条例を考える際に非常に有用となる。無知のベールとは覆われることで自分や他人の持っている条件がまったく分からなくなる特別なベールという意味であり、自分や他人の持っている条件を己の性的嗜好に当てはめてみるとよく分かるようになる。自分たちが性的少数者になったと仮定してみることで、少数者に対する思いやりが自然と湧き上がり、平等な世界を築き上げる事ができるのではないだろうか?


では二部に移っていこう。

この部では前述した通り、私たちの心に内在している無意識の偏見から脱するための文である。ここまでマジョリティーは少数者を理解しなければならないと述べてきた。しかし、いくら他人に寄り添うように努めたとしても己の心には彼ら、彼女らに対し、識閾下で気持ち悪いと蔑む意識があるのかもしれない。それがたとえ集合的無意識であるとしても彼らの存在を無視してはならないのだ。虚心坦懐の心持ちで人と接しなければならないのだと私は思う。ここでぬきたし2のオープニングである【BWLAUTE BEIRRD】の歌詞にこんな一節がある。

「あるがままが正しい」と
 
耳障りのいい言葉並べ

無意識の常識が

ほら、また誰かを傷つけている

この一節が示す通り私たちが無意識のうちに構築した常識が知らず知らず誰かを傷つけていることを指している。そんな事あってはならないのだ。この無意識の常識による偏見はアンコンシャスバイアスという言葉に換言することが出来る。

アンコンシャスバイアスとは文字通り un conscious に由る bias という意であり、前述した無意識でこうだと決めつけたり思い込んだりする偏見である。私たち人間にはこのアンコンシャスバイアスが必ず存在している。また、私たちはアンコンシャスバイアスを完全に取り除くことは不可能である。しかし、なにもせず、これからを生きていっても良いのだろうか?それでは哀しみは増えていくばかりである。少しでもこの哀しみを減らしていくためにはアンコンシャスバイアスをなくそうと意識的に努力する必要がある。だが、この努力は到底容易にできるものではない。なぜなら意識的に努力しようとしても意識の内部にアンコンシャスバイアスが存在しているからである。


しかし、いくら私たちが無意識に支配されていようとこの無意識を打ち倒さんと云う意思さえあればよいと私は信じている。この意思が、力が肝要なのである。


最後にここまでマジョリティーはマイノリティーを慮らなければならないと述べてきたが、ではマイノリティーは何もしなくても良いのかという問題にも行き着く。

結論から述べるとマイノリティーにも努力しなければならない義務がある。

マイノリティーはマジョリティーを理解させなければならないのだ。ただ自分たちはなにもせず、向こうから理解が示されるまで待っているのは愚行なのだ。また、自分とは違うからとマジョリティーである他人を傷つけるのは子供の癇癪と同じである。もう一度言うがマイノリティーは努力しなければならないのだ。

もう一つ肝要なのは正しい努力が必要ということである。

正しい努力をしなければ却って周りの目が厳しくなる可能性が十二分にある。昨今のヨーロッパではLGBTの人々によるデモ活動が頻繁に行われている。私はマジョリティーを理解させようと奔走するその心意気には感心するが、些か努力の方法を間違えているように感じる。いくら理解させようとしても人々の普段の生活に支障をきたす程の活動を行ってはならないと私は思う。現に今の世の中でLGBTに対する心象は非常に悪い。まるで子供のように感じる。これでは本来是正していこうと試みたにもかかわらず哀しみが増えていくばかりではないか。西欧の方々には今一度努力のやりかたを見直すことが必要とされる。両者とも正しい努力を行い、共生の世界を目指していこうではないか。



あとがき

題名に正義論を用いていますが、私は正義論について知悉しているわけではないので正義論に対する解釈が間違っている可能性が十分にあります。また文章が稚拙だと感じるかもしれません。その場合はご寛恕ください。誤字や誤謬があれば是非指摘してください。ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。これを読んで少しでも、考えていただければ嬉しいです。


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