不登校・フリースクール時代を事実のままに書くのは難しい
ご無沙汰しています。
そしてクリスマスに書く内容なのかという話ですが、過去の記憶を引きずり出して書き出していくうちに自分でも忘れていた不登校・フリースクールからの様々なバイトなどを通して見た10代の記憶は正直どこまで書いていいのか書けば書くほど、わからなくなったというつまずきに合っています。
また、エピソードで気になってAIなどに質問していくと今度は当時の私はAI的にギフテッドの可能性もあるよ疑惑も出て来て、ただそれって今更検証もできないし、またたぶん事実とするならADHDやIQテストをした上で書いた方がいいのか?などとも思ったりもしながら、そこまで行くと余計にいま以上の諸刃の剣のような内容にならないか?とも懸念してここ数日唸っています。
どこかで書くのが正なのか
まず、どこまで書いていいかに関しては情報を出すことによって理解や認識がいまの「いまだに精神論優先」で優しい虐待推進になりかけている不登校児界隈に馴染んでいる人からすると暴言や暴露としか捉えられず、本当に困っている子たちへのヘルプとして大人の認識変化にもつながらなかったり、余計なレッテルになりかねないことや、私が見てきたことを「あくまで私が見て来た事」と告げても、それをすべてだと思い込んでしまい子どもに強要する人が出るんじゃないかと懸念がどうしても拭えないでいい表現方法が浮かばないでいます。
私と同じようにあまり恵まれていない経済状況の家庭や似た持病や特性を持っている子たちに同じように無理を強いたり、この人は病気を持っていてもできたのだからになると本当に意味がないと思っていたりもして…。
そして、フリースクール時代の話を書くことは私からすればよきことを行う場所に集うものすべてが善人ではなく、フリースクールでも軽い話であればイジメは存在するし、問題がそれなりにある思春期の子が集えば学校以上に問題が起こることもあり、いま思うとそれは子どもが抱えていてはダメで大人が入ろうよ。と思う事や本気でNGだよそれという話もあったりするんですね。
なのにもかかわらず「大変な思いをした子たちだから、人の痛みがわかるから」などの綺麗事で胡麻化されている大元が崩れていく部分もあるから感情を省いて表現するにしても、これはどう表現すればいいのかと悩んだりしています…。
何故悩むのか
当事者はもちろん、特に親御さんたちに冷静に考え、学校に行かなかったことで年齢相応に情緒が育っていないことで問題に巻き込まれやすい子たちが犯罪や性被害に合わないで欲しいと綴りたいが人によってはただのフリースクール批判としか感じないのではという懸念もある。
また当時からの文化が不登校やフリースクールに通う子たちに残っているのであれば、子どもたちが居場所を守るために隠ぺいに手を貸す状態というのは続いている事もあるのではないかと思っている
子どもたちが口を噤むという事
叩かれればなくなる可能性が高い場所という事も一定年齢以上の子はわかっていてフリースクールが不利になるようなことは口に出さないというのはある意味私が居た当時のフリースクールに居た子の中で常識になっていたとは思う。
これもフリースクールとどんどん疎遠になったきっかけの一つで、そういう感覚が嫌いだというのもありますが、親にも心配をかけると話していない話というのは多々あるし、もちろん外部にわざわざ話すこともなかったことを考えても多くの子が同じことをしていても不思議ではなく。
いま思うとそれは本当に正しかったのかと…
子どもの浅知恵だったのではと思わなくもなく。
何が正解なのだろうと、ない正解を想って悩んでしまっています。
回避ができる可能性と偏見に対してのジレンマ
こういった話はなかなか表にも出ていないのを見ると注意喚起として親たちに子どもを守るために知って欲しいと思っても、今度はいま現在そこにいる子たちのことを考えてしまう。
フリースクールとは現在、私が通った当時と比べて多様化もしているし、当時で考えても私は個人的に弱者が集まる場所ではないと思っている。
だがしかし、中には世の多くの人が想像するままの虐げられた子や行き場を失った子も居る。
私自身が行き場を失った子どもであったのも事実で選べるのであればフリースクールより学校に行きたかったし、留学をもっと早くしたかったとは思うが親が選んだのがそこだったので私にはそこしかなかったし、児童相談所のおばさんの態度と言葉にムカついてノリと勢いでフリースクールに通う気になったので何ともという気持ちもあるのだとは思う。
そう思うと確かに事実であり、私の目に見えたことであったとしても、それを表に出すことは正しいことなのかわからなくなってきています。
不登校だけでなく10代20代前半によくある事
いま大人になって問題だと感じることはフリースクールを辞めて学生をターゲットにしたPR会社でバイトしていた時にも種類は違うものも含めて10代の子が多く集まる場所でもありはしました。
10代だから起こることというのは学校に行っているかいないかだけではなく様々な事柄が絡み合って産まれて、結局できることは自分の体験からの注意喚起だけになると本当に難しく感じています。
ただ、最近流行りなのか「学校に行っていなくても」「勉強をしていなくても」系の親発信がとても目立つ。本当に目立つ。
いや、昔からあったのかもしれないが最近調べごとをしているときに目に留まることが多くやるせない気分になります。
思い込まずに知って欲しいこと
これは1例でしかないけれど、実体験と友人たちの体験を元に言うのであれば、学校に行っていない・勉強をしていなかった子が同年齢の子に追いつくのは学校に行っていない/勉強をしていない期間が本当に少なく本人に学習意欲が高ければ個人の学習で追いつくことが可能なこともある。
が、しかし一定期間以上、学校にも行かず勉強もしていない子は独学ではほぼ不可能でギブアップする子も多く居た。
長い年月学校に行かなかった子で学習を追いつかせた子は家庭教師や塾、予備校に留学などを踏まえてかなりの予算が投入されて追いつかせていたという現実を見て来ている。
AIに聞いてみても独学でできる子は居るが稀であり、親が全面的に学習サポートするかサポートが難しい場合は学校以外で月額で数万から数10万の費用が必要になる可能性を示唆された。
専門家にそう言われた!という方も多いと思うが、一度AIにも聞いて見て欲しいと思う。
耳障りのいい優しい言葉に惑わされないで
不登校界隈はまず親が会話ができる状態を保ちクレームにならないようにまず親の不安を取り除く会話法を用いることが多いと思う。
これは心理学の教科書にも載っている手法でカウンセラーやマーケティングでも…
というか詐欺などにもよく使われる手法の1つである…。
そして、不安になる部分は隠されるので現実的に金銭面の負担などはまるっと触れていないケースも多い。
正直見ていて、実際それを鵜呑みにした我が母を思い出し、そしてその母と同じようなことを言っている現役の不登校児の親たちのポストを見て、不登校児の親世代は自分と同年代なので同年代として思う部分と母との重なりを感じてやるせなくなる部分ととても複雑な気分にもなる。
こういったことを加味して考えると
私の目線で見たものは家庭環境も含めて偏りがありすぎ、また私が必要だ。危険だ。と思う事が果たして必要であり、危険なのかもわからなくなってきてしまった。
ふと思い出したエピソードでキリスト教の幼稚園に行っていたのだがそこで「スケープゴート」という言葉を知り、正しく意味を理解し家庭における自分の立場をスケープゴートだと4才で理解していた私は今更になってそれが普通なのか気になり一般的な感性なのかというとAIに聞いてもあまり一般的ではないとなってくると余計に…
自他ともに変わっている。変だ。という認識があるのは不便だと思う。
自分が日本でスタンダードだという自信があれば「これは知るべきだ!」と自信を持って言えるのにと、こういう時に本当に思う。
助けたいから書いた内容で誰かを傷つけるのは本意ではなく、傷つけるかもと端折ると話のつじつまが合わず…
いっそ全文尖った系でまとめてみたり、フィクションの物語にと思ったがそんな文才もなく、煮詰まり進みやしない。
ああ、いつになったらまとまるのか。
いっそのことあきらめようかと思う今日この頃でした。
最後まで読んでくれてありがとう
おいしいものを食べて讃美歌でも聞いて、また唸りたいと思います。
そして、多くの方々が今日この日が少しでもしあわせを感じられる日でありますように
みなさんよいクリスマスを!
一つ、追記で
日本において本人たち以外からするとフリースクールもオルタナティブスクールも多様化教室も大差ありません。ええ、本人が行ったか子どもがそっち方面行かないと仕事関連でやってない限り区別とかつきません。
なので、全然違う!と行ってる人たちは思うでしょうが外部からの評価は大差ないです。
まだまだ一般の学校以外ってそんなものだと行ってた本人たちでも忘れてそんなものなので言い方こだわっても逆に混乱されて、あの人めんどくさいねで終わるっていう、ちょっとそういう現実も落ち着いてみて欲しいなって思います。