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「村長を選ぶのはマフィア」(2024年4月)

●4月1日/1st Apr
ちょっと訳あって亀岡へ。折角なので聖地の調査も兼ねる。亀岡といえば大本教の天恩郷がある。今整理している本では取り上げないが、その先の神道形態学で関係してきそうなので、一通り見て出口なおからの流れを少し勉強する。

もう一つ、重要な聖地として出雲大神宮があり、今回はこちらが本命。大国主命を主祭神とする単立神社だが式内社で、一万年以上も祀られているとか。出雲大社との関係についても色々と腑に落ちない所があるし、磐座もいくつかあるので少し時間をかけて見る。天恩郷が少し張り詰めていたのに比べて、こちらは穏やかな空気が流れている。

聖地系は調査ばかりしていてアウトプット出来ていないが、長丁場になるのでじっくりやりたい。ただ、分からないことが多過ぎて迂闊には語れないのが難しい所。仮説だけだと山ほど立てれるが、当然証拠には乏しい。帰り道で樹齢1000年を超える野間の大ケヤキに呼び止められて少し話をしたが素晴らしかった。

●4月2日/2nd Apr
大阪大学CSCDに居た15年ほど前に、文学研究科のドイツ文学の教授のために作ったテーブル。この頃は家具とインテリアのデザインをすることが多かったが、顔の見える特定の誰かのためにデザインすることにこだわっていた。だから教授のために2200mmのドイツブナの天板を、ルール工業地帯のH型鋼で支えた無骨なデザインにした。

とても喜んでもらえたし、試作のためにもう一つ作ったものを自分用にも長年愛用していた。10年運営していた実験アトリエや難波の研究室でも使ったが、次の新しい研究室にも持っていく。ただ一つ難点が。5枚のはぎ合わせ材で作った天板に縦ラインを強調する浅い溝を切ったデザインにしたので、図面を描く時に引っかかる。

前々から懸案事項だったが、今回部屋の建具整備が概ね落ち着いてきたので、溝を埋めてリメイクすることにした。マスキング後にウッドエポキシを埋めてベルトサンダーで削る準備。オイルフニッシュかワックスで仕上げようかと。部屋の整備もいよいよ佳境に入る。

ひとまず溝埋めて、ベルトサンダーで荒らしてワックスかけてみた。シャビーな感じに。

●4月3日/3rd Apr
新年度に入ってから、不穏なニュースが相次いで駆け巡っている。報道通りにそのまま受け取ることは愚かだが、不穏なニュースが流される背景や意図の方が気になる。一方で、明らかにおかしな不正行為か隠されもしなくなることも同じ力学で動いている感じもする。いずれにせよ、すぐに何かの価値判断をしてしまえば足元を掬われる。

理屈や論理に罠が仕掛けられている時代では、論理的、合理的な判断が間違えを起こすことがある。とはいえ、感情や情念に基づく判断はそもそもうまくいけないことの方が多い。そんな中で、これから本当に必要になってくるのは直観ではないか。理由は不明だとしても敏感に違和感を感じ取ることと、確かめるまでは判断を留保して観察する勇気が大事になるのかもしれない。

物事を直接観察するというのは、本当に難しい。我々は色んな概念や価値観、常識に既に汚染されており、見た瞬間に判断をしてしまう。分からないものに出会った時に、分からないままにはしておけず、すぐにそれが何かを解釈して次に進もうとする。しかしその解釈して処理する態度は、直観をどんどん鈍らせていく。

情報化社会では何でも情報に変わり、膨大な情報が次々にやってくる。いちいち立ち止まって考えていれば、すぐに置いていかれる。情報が知識に変わる暇もなく、知識が智恵になることなどほとんどない。子供の方が智恵があるのは、知識を介さずに物事と向き合うしかないからだろう。そのまま素直に見ることができる場合が多いように思える。

●4月4日/4th Apr
急遽、ゼミ紹介のための映像を撮影することになり午前中はI-site館内をロケハン。リチャード・セラの彫刻作品のような設えの面白空間にしてみた。ソファだけこれから愛用することになるものに取替えて、少し様子見する。

●4月6日/6th Apr
村にならず者たちが好き勝手に暴れないのは、村長が睨みを効かせているからだ。だが村長自体がマフィアであることを多くの村人たちは知らない。それを知った村人は消されるか、その反対に共謀して成り上がるかの二択になる。なので結果としてそれを知らない村人だけが残されて村長を信じ込む。

たとえ多くの村人が村長がマフィアであることを知ってしまったとしても、選挙で選ばれる次の村長も結局は別のマフィアになる。マフィアしか村長になれない仕組みになっているのは、表向きの選挙ではなく、より上のクラスのマフィアが次の村長を選んでいるからだ。

この時代では村長がマフィアであることはもはや隠されないので、村人たちが望まないようなことでも堂々と出来る。村人たちがいくら村長を別の者に代えようとしても、表の仕組みに則っている以上は、より"誠実そうに見える"マフィアに取り変わるだけに過ぎない。だが村人たちはそれで満足する。

マフィアを打倒するぞと唱えて村人を焚きつける者は、秩序を乱す"ならず者"にされる。マフィアは秩序を好み、秩序とはマフィアによって保たれている。そしてその村人を焚きつけた革命家も、そのうちその秩序の仕組みに気づいていくと二択を迫られるようになる。

死を選ぶ革命家もいるが、多くの者は死にたくないので、結局はマフィアと共謀するようになる。その方がヒーローになれるし美味しい思いが出来るのでその誘惑に逆らうのは難しい。革命家のスローガンは最初とは中身が違うのだが周りの村人は気づかない。だから村人たちの応援によって、革命家は次の村長になるだろう。こうして秩序の仕組みは表も裏も維持されていくので、結局は表面が波立つだけで繰り返されることなる。

今や革命家は次の村長になるための単なる手法になっている。何も知らない革命家の卵は声を荒げて耳目を集めて、人を扇動する。だが成功した革命家は本当に何も知らずに利用されているか、全て知っていて意図的に共謀しているか、より上の者に銃口を突きつけられているか。結局は無知か欲か怒りのバリエーションに過ぎない場合がほとんどだろう。

●4月7日/7th Apr
龍の年の春。次の龍には暦が一巡して還ってくる。満開の桜を眺めながら、この風景をあと何回見ることが出来るかと想いを馳せる。ヒトの一生など神々に比べるとあっという間に終わる。だからこそ為すべきことに精進する心が生まれるのだろう。寿命が長いと努力に身が入らないのかもしれない。

●4月8日/8th Apr
ずっと関心なさそうにしていた人が、何かの成果を上げた途端にこっちに近寄ってくるのを見るたびに寂しい気持ちにはなるわな。結局「利」でしか判断してないというようには見える。
それは中身を評価しているわけではなく、世間的な評価を評価しているだけに過ぎない場合が多い。「杜子春」で書かれているが、金がある時には友達だと言いながら群がってきて、金がなくなるとさっと身をひくのとあんまり大差はないのだろうなと。
その人がこちらの中身に関心があるのか、成果にだけ関心があるのかは、ちゃんと観察していれば分かることでもある。「利」を求めて近づいてくる人はそのあたりが非常に鈍感で、こちらが気づいていないと思っていることが多いみたいだ。
この情報過多の世界では人はどんどん鈍感になっていく。強い情報にしか反応出来ず、作られた評価しか見えなくなっている。それは「美意識」が下がっていくことと関係しているように思える。
美意識というのは、気づきの感度と関係しているように思うが、ヒトは強い情報にさらされると感度を鈍くすることで身を守ろうとする。

●4月9日/9th Apr
新月で皆既日食の日。今日からしばらく聖なる食事の期間に入り、普段の食を見つめ直す。

●4月9日/9th Apr
学生のゼミ配属のため、環境社会システム演習2の初回の講義で研究室紹介。自然系の先生方は12名。それぞれの研究室でこれまで取り組んでこられた内容を学内システムに上げておられる。

僕の研究室には、まだ学生がいないので、研究室として紹介するものが何も無い。なので、インタビュー映像という形で研究室の抱負を語ってYouTubeに限定公開した。

今のところ学生のみの限定公開だが、本編では26分ほど語っている。結構ちゃんと作ったのでトレーラーだけこちらにも共有しておこうかと。関心持つ学生がいれば嬉しいし、学生でなくても本編インタビューを見たい声があれば一般公開も検討したい。

●4月11日/11th Apr
人間の脳はパターンを認識する道具で、電子計算機はデータを処理する道具だ、という決まり文句はこの人工知能時代では怪しくなっている。フレーズの前半の部分の「脳とパターン認識」はますます固定化されていき、ここに罠を仕掛ければ簡単に事実が作り出される。
そうなると今度は罠のパターンを見破ることが重要になるが、そのためには智恵が必要だ。罠のパターンが固定化して来れば、そこにまた次の罠を仕掛けることが出来るからだ。罠とは罠が仕掛けられていることに気づかないから罠で、整合性に矛盾がなかったり、証拠がないように見えるから気づかない。

●4月13日/13th Apr
存在というものの本質が「ある」と「ない」が重ね合わさっている状態であれば、「ある」だけに着目して見つめると存在は成立するが、「ない」だけに着目すれば存在は成立しない。我々の見方によって存在と無はどちらもありうることになる。まなざしこそ存在を生み出している。

●4月14日/14th Apr
玄米のみを食す七号食の折り返し日。期間中はカフェインも摂取しないので、コーヒーは飲めない。"食べること"についてはもうずっとテーマとして考え続けているが、この期間中は特に意識的になる。まだ6日目だが今回は身心共に嫌がっていないようだ。

玄米しか食べないとなれば、食は楽しみではなくなる。だから我々の普段の生活がいかに食の楽しみで組み立てられているのかについて意識させられる。自らの食をコントロールできないと、結局は人生をコントロール出来ない。いくら高邁な社会理念や哲学を唱えてもリアリティは薄いだろう。

ほとんどの人はよそ事だが、今、世界は戦争の真っ只中にある。見えている戦争だけではなく、僕らの生活の中にも戦争はとっくに入り込んでいる。そしてそれはますます加速していくだろう。もちろん食にも戦争が隠れている。

この戦争に気づいて拳を振り上げる人たちもいるし、その気持ちは分からなくもない。ただ、せめて自らの貪りを抑えて、身体の外の戦争にも、身体の中の戦争にも加担しないように一定期間を過ごすことが、まず自分にできる最小限のことではないか。

●4月15日/15th Apr
結局、メディアとしてまともに書評を書いてくれたのはゲンロンさんだけだったかな。やはりこの手の内容の本は新聞書評とかには馴染まないのかもしれない。後は個人のブログで熱烈に書いてくださる方が居られたのは、本当に心より感謝。

●4月16日/16th Apr
ひとまずゼミ訪問日の1日目を終える。やはり後期の講義がかなり影響していて、受講した学生とそうでない学生との違いは明らかなように感じた。受講した学生は半年かけて僕の話を聞く準備が培われてきたが、初めて来る学生は面食らったかもしれない。

それにしても、5分のスピーチだけでゼミの第一志望にしている学生は要注意か。こちらがどんな人なのかを何も調べないでやってくるのは、出だしから遅れを取っている。雰囲気だけで面白そうと判断していると2年を無駄に過ごすことになるかもしれない。

●4月17日/17th Apr
玄米のみを食す七号食の九日目。何度もしているので空腹と食欲の分離の感覚は以前と変わらずあるが、今回気づいたのは禅定に入るまでの時間がかなり短縮される。あと昨夜のような雷の夜には意識がかなり乱されるのも興味深い。

●4月17日/17th Apr
熊本学園大学の入試に拙著「まなざしの革命」が使用されたみたいだ。「常識」の章から。筆者の意図を選ばせる問題だが、うっかりしていると筆者が間違えそうな選択肢が用意されている。毎回思うことだが、こうした問題を作る人は凄いなと。心より感謝。

もう1通来ました。この時期に問題集つくるので著作確認が結構多いですね。

●4月18日/18th Apr
今年に入ってからの一連の動き、発生した出来事の順番、人々の意識の導かれ方など、諸々を見ていると、いよいよ戦争に向けた準備が整いつつあるようにしか見えない。あとは何がトリガーになるのか。いずれにせよ、それを引いたのは我々市民ということにされるので、賢いプロテストの方法を模索せねばならなくなるだろう。
一つの出来事だけ取り上げても見えないが、囲碁や将棋と同じで、一手一手の積み重ねで気がつけば包囲されているのが戦争における兵法。それを見るには分析的な見方では難しいことがある。全体を直観的に見ないといけない。
理屈に囚われて色々論じるというのは、既に対象物に絡め取られている可能性がある。理屈自体に罠は仕掛けられるものだし、論じるとさらに罠にはまっていく。
直観というものが本当に大事になってくる時代だが、それをどうやって教育するか。大学では理屈にフォーカスし過ぎる傾向があるが、反比例して直観がどんどん鈍っていく。本当に注意すべきものこそ理屈であり、この社会では直観が鈍ると文字通り殺されてしまう。

●4月19日/19th Apr
ここのところ博士課程のゼミ生と一緒に地磁気の研究をしているが、第二次世界大戦前の文献あたりはまだ研究に政治的バイアスが比較的少ないものが多いように思える。ただ、やはり全く注目されていないので絶版ばかり。

●4月20日/20th Apr
本日は、大阪公立大学の「未来の博士育成ラボラトリ」の本年度の開講式。40名ほどの中高生のまえで講演させてもらった。今回はテーマがサイエンスなので、「芸術という科学実験」というタイトルで、サイエンスアートの文脈で自分の作品を話した。

最近僕が作った化学現象を使ったモニュメント空閑の話もしたかったが、まだ発表のタイミングではないので、2018年に作った「地球の告白」を紹介。フーコーの振り子を使って地球の自転を可視化しながら、時間について考えた作品なので、物理が好きな子には響けばいいなと。

オラファ:エリアソンの現象アートもいくつか紹介しながら、自分の作品も位置付ける。学生もそうだが、理学系、工学系の先生方の反応が大変良かった。最後はゴーギャンの絵で締めたが、アート色満載の講演になった。

質問ではバンクシーのことなどが出てきたり、個人的なことへの質問もあったりと、それも楽しく答えられたように思う。科学が間違えぬように、しっかりと芸術がもう一輪として支えることの大切さは伝えたつもり。機会を下さった先生方、事務職員の方々にも心より感謝。

●4月22日/22nd Apr
研究室の引っ越しに伴って、旧研究室の解体作業。アトリエが緑橋にあった頃に自分でデザインして、地元の鉄工所と塗装工場で作ってもらったシェルフユニット。

2枚の鉄板を内側に折り曲げて、上下にスタッキング出来るようにして、くり抜いた鉄板もブックエンドとして利用できるように効率的にデザインした。ワンユニットごとに組み立てたり解体出来るのでとても便利。

木枠は裏側に展示壁面を作っていたので組んだが、シェルフ自体は独立して5段くらいまで詰めるようにしている。新しい研究室でも大活躍。

●4月23日/23rd Apr
先日の未来の博士の講演後にある先生が来られて、少し話をしたが、その内容が心に引っかかっている。その先生いわく、フィクションで伝える芸術のチカラは改めて本当に凄いと素直に感じた一方で、恐ろしいとも感じたという。

映像や作品を見ていると、自分の思考や思想が導かれて、うっかりその通りだと思ってしまう危険性があると感じられたようだった。その先生は決して悪びれることもなく、嫌な感じも全くしなかったのが、逆に印象的だった。

感覚に訴えかける芸術が扇動的になりがちなのは確かにそうで、かつてのナチスドイツのようにアートがプロパガンダの道具になってしまう危険性はある。だからこそメッセージを発する側の倫理観や冷静さが大切になると、ひとまず僕からはそう答えておいた。

短い会話だったのでその場ではそれくらいで終わったが、もしもう少し続けていたならば、今度は僕から問いかけただろう。「では科学はフィクションではないのか?」と。科学は真実を提示して、芸術はフィクションを提示するという視点には盲点がある。

僕自身の考えではどちらもフィクションに過ぎない。違う角度から世界を論じているだけだが、感覚に訴える芸術に対して、科学は冷静であるという図式こそ、壮大なフィクションの可能性がある。特にこの数年は科学こそ顕著にプロパガンダの道具に使われて、人々を扇動してきたのではなかったか。

そのことに無自覚な科学者の方が危険だと感じるし、我々に提示されている今の科学を無批判に信じ込む社会の方がよほど危険だ。だからこそこれから科学に触れていく子供たちには、その盲点に敏感になって欲しいと思って対話を試みている。

●4月23日/23rd Apr
本日はゼミ訪問の2日目。第一志望ではない学生のほとんどは、僕の講義も聞いていないし、ゼミ紹介映像も見ていない。顔見せの際の5分のスピーチだけで来ているようだ。別の研究室へ行く学生とは、この先ほとんど会うこともないかも知れない。

だから一期一会の中で何か一つでも、彼らの人生にとって有意義なことを伝えられればと思い色々と話をする。関心持つ学生も居れば、全く響かない学生もいてさまざま。ジェンダー差があるのかどうか分からないが、理系男子の方が比較的反応が鈍い気がして興味深い。

●4月24日/24th Apr
泡は色んな用途に使えるため、自然界でも泡を利用する生物は沢山いる。泡の多面体が作る幾何学的構造が出来る要因は二つある。泡のあいだのプラトー境界の角度と、表面積の最小化。それらを満たす形態については長年調べられてきた。

十八世紀には聖職者のヘイルズがかなり規則的な十二面体と論じ、その後1753年に動物学者のビュフォンが斜方十二面体と論じた。1887年にはケルヴィン卿が隙間なく空間を充填出来る正八面体の切頂の十四面体と論じた。

ところが1946年に植物学者のマツキーが六角形の面と五角形の面がある多面体だと唱えたが、力学的に安定した泡のかたまりの表面積が最小化する形態を取ることは受け入れられた。

1993年に物理学者のウィアとフィーランが発見したのはプラトン立体的な一つの多面体ではなく、八つの多面体からなるユニットが並ぶ形態だった。この形態だと、ケルヴィンの構造よりも0.3%ほど表面積を最小化出来る。(ちなみにこの形態が2008年の北京オリンピックの水泳競技場のデザインに用いられている。)

しかしウィアとフィーランはより原始的な方法で追試したところ、さらに単純化されたプラトン立体に近い形態を発見している。僕の関心は、そういう形態の根元に立方八面体があるのかどうかに向いているが、果たしてどうなのだろう。

●4月25日/25th Apr
本日、16日間の七号食が明けた。食事を見つめ直して身体も心も排毒する期間だが、もう何年も続けている。今回はそれほど心が嫌がらなかったが、身体の怠さはずっとあった感じか。年々代謝が落ちているので普段の食事を意識的になる必要がある。円安に加えて食糧難、災害などで、食糧の安定供給が難しくなる可能性がある中、自分側の備えも大切かと。

●4月25日/25th Apr
この時の雪山でのロケは大変で文字通り死にそうになりながらの撮影だったが、今となってはいい思い出。韓国人の監督作品で、全体的に良い芝居が出来たが、結局この映画はお蔵入りしてしまい残念。

●4月25日/25th Apr
この作品もこの時期に撮影していたか。このシーンも結構良い芝居が出来たが、この作品もお蔵入りしてしまった。映画の場合は再現性よりもワンテイクだけでもいいのが撮れればそれでOKなので、芝居も型よりも内圧の方が大事になる。浦山監督とは随分とお会いしていないが、お元気にされておられるだろうか...。

●4月26日/26th Apr
本日は本学にて京都大学の生存学館との合同での総合知交流会の第4回目。学生の発表が中心だが、自然科学から社会科学まで幅広いテーマが話される。コメント欄でそれぞれ順番にレビューしていくと...

大阪湾は河口部に隣接するエリアでは海の富栄養化が起こり、淡路島側では栄養に乏しい、栄養塩偏在問題がある。それに対する海陸一体型の物質循環システムの取り組みとして、海産バイオマスプラントでのメタン発酵残渣の活用が研究されている。その硝化と光合成の実験に関する研究発表が一つめ。

二つめは、宇宙での長期移住のために、閉鎖生態系によるコアバイオームとしてまサンゴを中心にした海洋生態系を構築する研究発表。実際のサンゴ礁の調査にYOLOという動画の物体検出のAIのシステムを使って生物種を同定することが試みられていた。

三つめは、高齢化した街への自動運転システムと合意形成のための情報共有プラットホームの導入についての研究発表。そこでは人々の合意形成という定性的な要素を、ベイズモデリングによる数理モデルで定量化することが目指されている。

四つめは、地方都市の中心市街地における歩行者利便増進道路、通称「ほこみち制度」の展開に関する研究。コロナ時のソーシャルディスタンスのため、道路専有特例がそのまま制度化されたもので、松本市、福山市、熊本市の三市での比較研究がなされていた。

五つめは、教育福祉分野からで、現行の学校教育で欠けている勉学の目的意識の喪失を考察する研究。生徒が主体的に思考できる教育や自立学習を目指した仕組みと制度と意識をいかに作るかを問題にする。

六つめは、プラスチックの生分解性と強度を両立させるための添加剤に関する研究。ボリ乳酸に添加剤POSSを加えると強度は増すが生分解性が容易でない。そこにチミンを加えて可逆結合を促進させる。270-320nmの紫外線だと結合が強まり、250nm以下の紫外線だと結合が切断される性質を利用して、生分解性を容易にすることが試みられている。

七つめは、SNSにおける誇大広告や悪徳商法の低減についての研究。特に著名人のなりすまし広告について、どのように規制するのかについて考察されている。

八つめは、心理学分野からで、利己的な振る舞いをする者への利他罰に関する研究発表。場面選択型の第三者罰ゲームを用いて、どのようなシチュエーションで利他罰が発生するのかについて心理テストを用いて調査している。

最後は、しんどさを抱える子どもたちへの支援に関する研究。心理的なしんどさや、経済的困窮、障害や性的マイノリティ、ヤングケアラーなど、様々な要因のしんどさがある子供たちの居場所をどのように考えるのかが考察される。

院生の研究発表から、まだ調査段階のものまで多種多様なテーマと学問領域が並ぶ。いつも話しすぎるので、僕自身は今回はコメントは少な目にしたが、全ての研究に対して個別にディスカッションポイントがあり、それはそれで議論してみたいと思っている。

ただ、これらをズラリと並べた時に、この現代社会の何が浮かび上がり、一体何が問題の本質なのかについてのディスカッションに踏み出さねば、総合知とは言えないようにも思える。コーディネートする側ではないので、あまり突っ込んでは議論しなかったが、その辺りが課題かもしれない。

●4月29日/29th Apr
新年度になったが、新しい研究室への引越しがまだ出来ていない。2018年に大阪のアトリエを閉めた時には、難波の研究室が狭すぎてに物品が収まりきらなかった。今回の新研究室では、学内で廃棄される物品のリメイクと、かつて自分がデザインした家具だけを使ってどこまで整備できるかの実験でもある。

デザインは新しいモノを生産することに意識が向けられがちだ。だが物の過剰生産と過剰廃棄の時代の中で、リユースやリメイクのヴァリエーションにクリエイティビティを傾けることの方が重要になるような気がする。そんなことを考えながら、デザインブリコラージュでどこまで出来るかを模索していると、整備に時間がかかってなかなか引越しまで行かない。もう一息。

●4月30日/30th Apr
見えない戦争は日常の裏側でずっと続いているが、目に見える表でも戦争に向けた不穏な空気が明らかに高まりつつあるように感じる。信じ難いのは大学人の普段の会話や会議、研究発表などを観察している中では、そんな危機感や意識はついぞ見えてこないことだ。

僕自身は幸か不幸かこの12年ほどはサテライトキャンパスに独居房のように居て、独りで色々と調べていた。だから大学コミュニティの中にいなかったのだが、改めてメインキャンパスに出入りするようになると、世間と大学との温度差に驚きを禁じ得ない。

もう少し突っ込んで話せば本音が見えるのか、それとも自分の専門やキャリアにしか関心がないのか、論点がズレているのか、あるいは破滅方向への自らの加担を知らずに一生懸命なのか。もしくは全部知って諦めているのか...。それを確かめるには個別にあたるしかないか。

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