![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/56036908/rectangle_large_type_2_e89568c4e5c40d32050dcca82eb3a1cc.jpeg?width=1200)
オタクとしての終わりと、新たな居場所へ。
こんにちは。フラッターです。
内容の全貌としては、「私はオタクにはなりきれないし、なれないけど、それでももう構わない。今ある幸せの形を大事にすれば良い。」と受け入れるまでの過程をnoteにまとめた、という感じ。
早速書いていきましょうか。しばらくお付き合いくださいませ。
1.オタクやそのカルチャーに対する憧れ
私は憧れていました。オタク的なカルチャーに溢れている愛情や活動の活発さに。
なぜなら、主に「推す」という感情を通して自分自身の生活を豊かに過ごしているように見えたから。
ある種、それなりに多くの人が手に入れられるであろう「幸せの形」のように思えたから。
羨ましかった。
だから私は、とあるソシャゲをプレイして、そのグループの中に入った。そこでも活動は一見、幸せの形であるかのように思えた。
しかし、これが私を更に苦しめることになろうとは、当時は思いもしないわけで…。
2.初めて入ったグループと感性の欠如、そして終わり
それは2017年頃。とあるソシャゲに出会い、自身のツイッターを開設。その時代のグループの中で活動を広めていった。
ソシャゲをしながら、ツイッターに二次創作を投稿する。いいねやRTもそれなりに頂けるというありがたい生活に変化した。(当時のフォロワーには今でも大変感謝している。)
だがその生活は長くは続かなかった。
そのゲームにはメインストーリーが存在する。そのグループの人たちは、大抵それを楽しみにしていた。
だが私は明らかに違った。明らかに違った。メインストーリーはあまり好きにはなれなかった。
決して、内容が悪かったわけじゃない。どちらかというと、私の感性の中に決定的に欠けているものがあった。それは、
他人の人生や架空の物語への興味の欠如。
私はそのゲームをしながら、なんとなく思っていた。「他人の人生を見せられているだけで、あまり楽しくないな…。」と。
楽しんでいた人には大変申し訳ないが、私の感性には響くことができなかった。
架空の物語が根本的に好きじゃなかった。なぜなら、学校の授業や校長先生のお話的なものとあまり変わらないと感じたからだ。
私の感覚はこうだった。ストーリーというものは、他人(先生)の話を一方的に聞かされている。まるで授業や講義のような感覚に陥ってしまい、強い不快感を覚えてしまう。そういった嫌なものだ。という認識。
この感覚を感じてからは、もう「グループ」の中にはいられないと思った。イヤな事にずっと執着している理由など無かったから。
いや、本当は、ずっとそこに居たかったんだろうね。せっかく手に入れた幸せの形だから。しかしそれは叶わなかった。
そして、私の本格的なオタク活動はこれを最後に終わった。
3.新たな居場所探し、見つからない居場所
新たな居場所探しを始めたのが2019年頃、新たなソシャゲを見つけてまた新たな場所でオタク活動をするつもりでいた。
しかしそれは叶わない。
一度感じた、物語に対する強い不快感を払拭することができなかった。
バンドリ、スクフェス、スクスタ、セブンスコード、花騎士・・・
様々なソシャゲを渡り歩いた。きっと、前のソシャゲの部類が出来ていたのだから、他業界でもやっていけると思ったのだろう。
しかし何度も感じる、物語という概念そのものへの不快感。
そこにストーリーがあるというだけで、あまり良い思いはしなかった。
そして私は、だんだんソシャゲをやらなくなった。一つの諦めがついたのだろう。
4.新たな居場所。ゲームセンターと音楽という故郷
私は昔から、KONAMIの作る音ゲーが大好きだった。
Beatmaniaが特に大好きで、2014年頃からずっと狂ったようにプレイしていたのを今でもよく覚えている。
そして現在、2020年末。私はしばらく行っていなかったゲームセンターへと身を移す。現在でも私にとっての居場所だ。
現在は主に「NOSTALGIA Op.3」という音ゲーをやっていることがほとんどだ。楽しい。ピアノの音が筐体からガンガン流れてくるとはなんと楽しいことかと思った。
そしてもう1つ。私は音楽を聴くことも大変好きだった。P-MODELを始め、nouvo nude,SLAKE,RAMなどの渋めのテイストの所が好きだった。
そして私はこの時思った。
「なぜ私はあんなに物語に執着していたのだろう?今だって手元に幸せが転がっているというのに。」
そう思った。全くその通りである。
確かにアニメやドラマ、ソシャゲのストーリーにしろ、楽しめないという事実はある。
しかしそれ以上に、私には音楽という大切な存在がいた。音楽ゲームという大切な存在がいた。
昔ほどの熱中ぶりではないにしろ、続けられているというのは大変エネルギーがあることのように思う。
そうして私は、呪いからほんの少しだけ、いや、大きく解放されたのでしょう。
また、いつか、物語が読めるように、触れられるようになるその日まで、心が追いつくその日まで、ゆっくり待とう。そんな気持ちになったのです。
終わりに
ソシャゲ私にとって一つの希望であり、また大いなる絶望でもある作品という印象になってしまいましたが、それでもかまわないと思っています。
もう昔には戻れないけれど、もう二度と戻れないけれど、それでも今ある幸せを大切に生きていくことが大切なのだと、そのゲームからは学びました。
ありがとうございました。
いつかまた明日。