病気との闘い⑰転々とする病院
みなさん、こんにちは!こんばんは!おはよう!
ふたつの痛みの病に侵され、痛みに呪われたflutist_umakoです。
前回の病気との闘いは私が受けたECT治療により、記憶をなくし、自分の人生をも失った私の喪失感についてお話しました。
残念なことに、線維筋痛症は今でさえ医師にすら知られていない病です。
ですから、この病を負った人は10ヶ所近くの病院を渡り歩くドクターショッピングする方がとても多いです...。
今日はECT治療の最中、治療終了後に渡り歩いた病院、民間療法などのお話について語りたいと思います。
渡り歩いた病院
私が都立の病院にECT治療で入退院を繰り返していた時に、両親と私の一番上の兄が東京の国立大学の大学病院の心療内科を受診していたそうです。
と、私は記憶していたのですが...。
母の日記を辿って行くと、どうやら両親と兄が東京の国立大学の大学病院を受診したのは、ECT治療の間でありましたが、栃木の自分の大学の大学病院でECT治療を受けていた時の様です。
私の大学の大学病院の麻酔科E医師が病院を離れるため、ECT治療をどこで受ければいいのか悩んだE医師と両親との話し合いから東京の国立大学病院の受診に至ったのかどうなのか私は忘れてしまって分かりません。
しかし、その東京の国立大学大学病院の先生の助言で私は都立の病院に転院することになったようです。
そしてこの病院で25回近くのECT治療を受けることになりました。
いつも無精ひげにくしゃくしゃの白衣をバッバッと伸ばして着ていた、都立の病院の麻酔科のF医師にはそのあと転院してからも電話で相談に乗ってもらったりととてもお世話になりました。
四方を桃や葡萄畑に囲まれた病院
リハビリテーションを目的に転院してきたこの病院は何を隠そう、私が高校生の時に入院していた病院です。
私は理学療法を受ける目的で入院しましたが、私は事故や脳梗塞などの後遺症を治すための回復期のリハビリではなく、長年の病気によるリハビリ。
保険の制度の話になってしまいますが、前者のリハビリは90日間というしばりはありますが「回復期リハビリテーション」ということで保険点数が後者より高く、病院としては回復期の患者さんを入れたほうが収入につながります。
そんな事情もあって私の肩身は狭かったわけです。
加えてリハビリ目的で入院したとはいえ、私の身体は激痛に包まれていたので、これといったリハビリはできませんでした。
この時も高校生の時に担当してくださったリハ室の室長さんが担当してくださったので、本来病院のリハビリでは保険として認められていなかった鍼灸を病院に掛け合ってやらせていただいたり、結局溺死しそうになったため2,3回で終わってしまいましたが、病院の職員のためのプールを歩くことを目的に使わせていただいたこともありました。
私が楽しみにしていた理学療法士の先生とのリハビリは、車いすに乗って外を近くの公園まで散歩することでした。
ちょうど桃の花が咲き誇っていた時期で、風向きが変わるとふんわり包まれるのが私のお気に入りでした。
しかし、リハビリが成立しない入院がそんなに長く続くわけなく、私たち家族は病院から転院を勧められました。
この頃、私は都立病院でお世話になっていた麻酔科のF医師に転院の相談を電話でしていたのをよく覚えています。
私なりに心がざわついていたからでしょうか?
そして出会ったA医師
リハビリ目的の病院から私はふたつの選択肢が与えられました。
ひとつは私の県にある国立大学の大学病院、それとA医師がいた県立病院。
その頃の私は「緩和ケア」ということばはイコール「ペインクリニック」だと勘違いをしていました。
どんなに大きな病院に今まで罹ってきても麻酔科やペインクリニックの病棟はなく、他の科と抱き合わせといった感じでしたので、ペインクリニックの病棟があることに魅力を感じました。
私の住む県の国立大学の大学病院は高校の時に診てもらっていたので、診療科は違えど何か新しい風を求めていたのかもしれません。
そして出会ったのがA医師です。
私はまだリハビリの病院に入院中の身でしたから、外出という形でA医師の外来を受診しました。
私のA医師の初めの印象は、ずいぶんゆっくりと私たちの話に耳を傾けてくださるなぁというものでした。
こちらの話を遮らずにうなずき、カルテを書きながら私たちの目を見て話を聞いてくれる先生だと。
大げさに聞こえるかもしれませんが、私はこの日の1時間を超える初診が終わった時には、A医師が「麻酔科」に入院可能とも言っていなかったのにも関わらず、この医師のもとで治療を受けると心に決めていたように思えます。
何より嬉しかったのは、
「大変な思いをなさってきましたね」
というA医師が私や両親を見ておっしゃってくれた事と、
「線維筋痛症の患者さんを他に診たことがありますか?」
という確か母が問いかけた質問に、正直に
「umakoさんが初めてです。一緒にがんばっていきましょう」
と言ってくれた事でした。
A医師が受診を勧めたクリニック
初診の日に私たちは一度A医師の紹介する神経内科・膠原病に特化したクリニックの受診を勧められました。
そのクリニックには入院設備がないため、その時の私はなぜわざわざ病院外のクリニックを勧められたか初めは分かりませんでした。
A医師曰く、
「もう一度線維筋痛症だという確定診断が欲しかった」
その言葉に最初私はA医師に厄介払いをされたのかと疑ってしまいましたが、今考えるとA医師だって診たことのない病気を扱う前に、確かに私が線維筋痛症だという確証が欲しかったのだと、今は当時のA医師の気持ちが分かります。
このクリニック実は以前E医師がS大学病院の難病センターのセンター長で、私のこの病態が線維筋痛症だと確定診断につながったそのセンター長の甥御さんだということも分かり、その医師の家系2名に私は、
「線維筋痛症です」
という確定診断をいただきました。
2006年の6月、私はリハビリでお世話になっていた病院から、今の病院に転院し、もちろん私はそのまま「内科病棟と抱き合わせの麻酔科」に入院することとなりました。
終わりに
実は私は以前からいくつもの民間療法を試してきています。
「笑っていいとも!」で罰ゲームに使われていたノニジュースに始まりもろもろと。
その中に兄が手配してくれたタカツカヒカルというヒーリング療法で当時名が売れていた人の治療を受けたこともある。
彼のような民間療法がどうも胡散臭く感じてしまった私はタカツカヒカルに始まり、その他サプリメントをはなっから「効果なんてないだろう」と思っていたので、効く力も効かなかったのかもしれません。
その点は両親や兄姉、私の事を心配してくれて勧めてくれる人たちに悪いことをしてしまったと反省をしています。
次回からは、A医師と歩んだ15年間をゆっくりと話したいと思います。
本当に長い闘いでしたから。