病気との闘い㉕夜空の星と月は笑ってた
みなさん、こんにちは!こんばんは!おはよう!
ふたつの痛みの病に侵され、痛みに呪われたflutist_umakoです。
前回は復学後1回目の4年生の卒業試験に落ち、2回目の4年生をするかしないかの選択を迫られ、迷うことなく私は2回目へと向かったお話でした。
このお話をシェアする時に添えた言葉なのですが、この時の私は本当にわがままで、独りよがりな考え方だったなぁと思いました。
それだけ、言語聴覚士になりたかったという事なのですが、それにしても大学8年じゃ、医学部にも行けていたじゃん…なんて無駄なことをしてしまったのだろうと、勝手だっただろうと今では思います。
でも、この8年を生かすか殺すかは私次第。
それより、私は無事2回目の卒業試験を受けて合格・卒業できるのでしょうか??
薬でもめたショートステイの受け入れ
1回目の卒業試験に落ちたものの、私は意外とあっけらかんとしていたし、残りの臨床実習をこなさなければならなかった。
2回目の4年生を迎える前に、実習だけは終わらせておかねばならなかったのだ。
こうして私は2008年を迎えることになったのだが、それまでとは大きく違う事がひとつだけあった。
それが、オピオイド鎮痛薬を使うようになったことである。
「ただ今まで通り薬を違うのに変えるだけ…」
と考えていた私は驚くこととなる。
それは今までお世話になっていた大学内の重症心身障害者施設から「待った!!」がかかったのだ。
私としては飲みなれているオピオイド鎮痛薬ではあったが、その施設で麻薬を扱う事になるのがショートステイの私が初の事案となってしまったからだ。
両親と、施設側との話し合いは幾度となくなされた。
「オピオイドさえなければ、受け入れ可能なのに…」
と耳にタコの様に言われたが、こちらとしても簡単に変えられる薬でない事は分かっていたので、何度も頭を下げるしかなかった。
この頃は私が車いすになった時のアパートを拠点に両親が受け入れ可能な施設を周り、私は残りの臨床実習を終わらせていた。
この頃、両親は私が臨床実習が無事終わるよう気を回してくれたおかげで、私は親がどんな問題であっちこっちの施設の見学をしているのか知らなかった。
何も分かっていなかった私は、違う施設のショートステイに行くのがなぜだか分からず、「ぶーぶー」言っていた。
親不孝者め!!!!
しかし、最終的には大学内の施設が引き続き受け入れてくれるだけでなく、
「umakoさんがこの施設から卒業できるようにサポートしましょう」
という事、
「前期は山梨で過ごす事」
この2点でこちらの要求を呑んでくれた!
しかし、その後の話し合いによって、
「1年間という期限付き短期入所」
という事に決まった。
私はこの時の感謝を、しっかり部長さんやリーダーさん、ケアワーカーさんに伝えたのだろうか??
今、思う。
その時の感謝はその時にしっかりと伝えるべし。
と。
2008年度のスタートと私の病気
この頃の私は新幹線や、在来線を使って大田原から山梨の病院、そのまま入院、そして退院したらまたそのまま大田原へという生活を送っていた。
私はちょっと勘違いをしていた。
私が酸素を使いだしたきっかけは、「三途の湖」を見たためだと思っていたけれど、実は異なったのだ。
今もこの症状は私の身体に残っているが、この頃から私は痛みをこらえる時に同時に息をこらえてしまうためSpO2が下がりためにA医師の判断で酸素を使いだしたのだ。
その直後の2008年4月26日、私は大学の大学病院を受診中に意識を失いICU入院、そして5月2日に退院したものの5月14日に重症肺炎で緊急搬送され、そのまま挿管されてしまう始末に。
この話について詳しくはこちらで
↓ ↓ ↓
とんだスタートになってしまった。
今お世話になっている施設との出会い
年度の初めからやらかしてしまった私は、
「酸素を常時使用では短期入所からショートステイに切り替えなければ」
と施設側から言われてしまったため、大田原の大学病院を退院後、事前に両親が見学してあった地元の障害者自立支援施設へ。
これが今私が住むこととなった施設なのだが、こんなに早い段階で利用していたとは…ビックリ。
これが前期が終わる頃の8月20日の事でした。
2回目の4年生後期
この頃の私にはまだ国家試験をみんなと一緒に受けるんだという想いはあった。
そう、想いだけは。
アドバイザーの教授からも、
「特論と卒業試験を受ければ国試も希望あり」
と言われていたらしい。
しかし、全部を前期の私にとって未曾有をのハプニング入院のせいではないし、病気のせいにもしたくないのだが、休学中の穴を埋めるだけの勉強を私は出来てこなかった。
確かに重症肺炎後は、体力もガタ落ちだったし、病気による痛みや倦怠感が酷くて勉強どころの話ではなかった。
それにしても、今思うと努力が足りてなかったと思う。
母と二人三脚だった特論Ⅰ
そんなこんなで今年も来ました特論Ⅰ(集中講義)。
今年も母と二人三脚の時期がやってまいりました!!
母の日記には特論の6日間の事が詳細に記されている。
私は3日目ごろから体力が持たない状態で、この年も母が耳にしたことがない単語がひらがなやカタカナでプリントにビッシリと書かれてあった。
母が自分の姪っ子くらいの年の子たちと机を並べて勉強している時私は、完全に眠ってしまっていたため廊下に出されていたなんてこともあった。
まさに二人三脚。
しかし、私が母の役に立つことはなく、いつも母が私のかけている部分を補ってくれていた。
あれを本当に二人三脚と呼んでよかったのか?
星と月は私たち親子に微笑んだのか?
特論が終わるといよいよ卒業試験が12月に待っている。
去年も受けて要領は分かっている。
私の他にふたり別室受験だった。
母は隣の部屋にいて補水と、ボンベの交換の際にのみ入室できた。
「落ち着け…落ち着け…大丈夫」
そう言い聞かせながら試験は終了した。
結果は次の日には分かった。
母はその晩ちょうど、お星さまがふたつ見え、その下に三日月があったためスマイルマークに見えたそう。
「こんな日に何で夜空が笑っているの?!」
結果は不合格。
再試験となった。
再試験の結果...12月8日合格!!!!
山梨への帰路、アドバイザーの教授からお祝いの連絡をいただき、母とふたりで嬉し泣きをした。
私は晴れて卒業する事ができる!!言語聴覚士になる事ができる!!
終わりに
しかし、私は大学から国試はやめた方がいいと勧められ、やむなく言語聴覚士を諦める事となった。
もちろん大学、特に私立の場合は国家試験の合格率がその後の入学者数に響いてくる。
私のような、なんちゃっては受けちゃいけないと思った。
身体が持たないし。
でも、いつか受けてやるんだと心に決めていた。
それが、何年先になったとしても…。
と、思っていた、その時は。
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