病気との闘い㉗内部障害の周囲の理解
みなさん、こんにちは!こんばんは!おはよう!
ふたつの痛みの病に侵され、痛みと共に生きるflutist_umakoです。
先日、失敗から思い直し再び書き出そうと決意したことに対して多方面から応援の声をいただき感謝申し上げます。
この場を借りてお礼申し上げます。
病気との闘いも大学卒業まででストップしており、この十何年間をどう表していくのか悩んでいるところですが、とりあえずどんな時も私についてまわるこの問題について以前書かせていただいたかもしれませんが、もう一度書かせていただこうかなと思います。
見えない障害をどうジャッジする?
今日のテーマを一言で言ってしまうとこの言葉に尽きると思います。
幸い私は病院において自分の病気の事を「仮病」とか「詐病」だとか言われた事は一度もありません。
しかし、線維筋痛症の啓発活動をしていくと多くの仲間が、医師や看護師からの心無い一言で傷つけられ、自分を追い込んでいく羽目にさせられていました。
それを感じるのはピアカウンセリングとしてお付き合いしている方の話を聞いている時も同じで、ひどい場合は家族にも病気の存在を否定される方もいらっしゃるようで衝撃を受けました。
痛みは目で見る事ができず、その客観性が乏しいから認知されないんだと主張する方もいらっしゃるように、もし私が逆の存在で、大切な人が目では見えず、体温計や血液検査、画像診断でも問題がないのに苦しんでいたら...
果たして私はその人の訴えをどこまで信じる事ができるのだろうか?と疑問符がついてしまうのもまた正直な気持ちです。
「施設」で暮らすという事の意味
私は「施設」というある人から見れば福祉に守られている社会の中にいます。
どんなに施設に入りたくても、
障害者手帳がないから
施設に空きがないから
行政にも病気について認知してもらえないから
などの理由から入れない人がいる中で、「施設」で暮らせている私は幸せ者なのかもしれないです。
しかし、福祉に守られたいという気持ちをいったん横に置いて考えてみてほしいです。
「施設」という場所はコロナ禍であるこのご時世も絡み合ってとてもとても閉鎖的な空間です。
そしてその中で働く人の中には病気を理解してくれる家族やパートナー、親友はいないのです。
もちろん、施設側が理解する努力を怠っているという訳ではなく、この何とも説明しずらい難解な病気の事を知っていてあなたを待っていてくれる場合はゼロに限りなく近いと思うのです。
その時、私は、みなさんならどうやって自分の病気について説明し、理解を得て、福祉のサービスを受けることができる様にすればいいのでしょうか?
「自分」を知ってもらうにはどうしたらいい?
私は今の施設にあと何年かしたら20年目を迎えようとしています。
もちろん、その間ケアワーカーさんたちは入職しては、介護の世界をやめていく人もいる訳で人は移ろい変わります。
しかし、そんな中にも私がこの施設を訪れた時からいるメンバーもいます。
これだけの時を一緒に過ごしていれば、線維筋痛症の事を自分の周りで親身になってくれた家族や親友、主治医の様に手に取るように理解してくれるか?
残念なことに答えは「いいえ」です。
もちろん誰もがみなではありませんし、始終ひどい言葉を浴びせてくるわけではありません。
しかし、最近の私は他人はどこまでいっても他人なのだと言い聞かせるようにしているのもまた本心です。
自分の身体の事は人には伝わらないこともある。
内部障害の苦しさを人に理解してもらう
では、どうしたら私の苦しみを理解してもらえるのか...?
結局のところ、それは口に出して訴えなければいけないのかなと私は考えます。
私たち当事者からすると、
「末期がん並みの痛みに襲われてって言えばどれくらい苦しいかくらい、ツラいかくらい理解できるでしょ?」
と思ってしまいがちなのですが、そこはやはり人間同士、テレパシーは使えないのです。
「痛い痛いってさっきも聞いた!」
と仮に言われても、それでも痛くてツラいのならば、私たちは口に出してその痛みを事細かに訴えなければならないのです。
ここで私の話をしましょう。
これまで私の拙い文章にお付き合いいただいた方はご存知でしょうが、私が痛みに飲み込まれずに生きていけるための物のひとつに「フルート」というものがあります。
もちろんフルートを吹いている時にもジストニア(不随意運動)が現れるため、音や演奏に響きますが、痛いだけの私の人生を支えてくれるのがフルートであり、私のリハビリでもあるため吹けるときまで吹いていたいと願っています。
しかし、ケアワーカーさんたちはこう考えるのです。
「フルート吹けるなら食事だって自分で食べられるでしょ?」
そう、私は痛みと運動障害のため食事介助(食介)が必要なのです。
しかし、フルートが吹けるくらいなら、食べる事だってできる...と私も当事者でなかったら感じていたかもしれません。
理解してほしい、食べることを諦めた意味
話が二転三転してしまうのですが、私は...というか、こういう閉鎖された空間の中では「食べることは楽しみ・喜び」なのです。
可能であれば自分のペースで、私は自分の好きな物を後に残して自分の手で食べたい。
好きな物を先に食べるか?後に食べるか?だけでも健常者だって語る事ができますよね?
しかし、それができないから自分の食へのこだわりを捨てて、頭を下げて食介して欲しいとお願いしているのです。
それを、「フルートができるのだから・・・」という事実とごった混ぜにするのは手荒いなと私は感じます。
そして、他の障害を持つ方と比べて、
「あの人は半身麻痺なのに必死にリハビリしているのに、あなたは五体満足なのに一日中ダラダラ過ごしている」
と言われてしまったり、はたまた、「痛い」ということばを使うことで相手を従わせていると思われているのか、
「『痛い』っていうことばを使われると私たちは何も言い返せない(従うしかない)」
と、突き放したような、呆れられたようなことばが返ってきてしまう。
私だって自分で食べたい!
できないから頼んでいるのに、それを「甘えている」といった捉え方や「好きなことはやるけれど(がんばれるけど)、そうでないことはやらない」という風に言われてしまう度に、内部障害の説明することの難しさを痛感するのです。
私が食べることを諦めざるを得なかった過去や現に自分では食べられないという事実は置いてけぼり。
私の気持ちも置いてけぼり。
A=Bではないのです。
終わりに
今回、私は今まであまり話してこなかった施設の中での生活について触れましたが、これは決して今お世話になっている施設を批判しているわけでもなければ、「虐待だ!」などと騒ぎ立てたいわけでもない事だけはみなさんに理解していただきたいです。
この手の問題は今いる施設だけではなく、仮に他の施設にいても言われるであろうことば達なのです。
それくらい内部障害を伝える難しさというのは全国津々浦々、地球一周世界中で起こっている事なのだと思います。
みなさんの周りに線維筋痛症や慢性疲労症候群などの内部障害に苦しむ人がいたら、その人の笑顔の裏にはその身体いっぱいあふれ出す位の悔し涙があると思って接してみてください。
なかなか難しい注文だというのは分かっているのですが、それくらいやりたい事を諦めているんだと感じてみてください。
今回も稚拙な文章にお付き合いいただきありがとうございました。
つたない記事ですが、サポートしていただくと俄然やる気が出ます!!🙂🎶 私の"やる気スイッチ"も入りますので、あなたの心に響いたらぜひよろしくお願いします。