病気との闘い㉖感謝!涙!!の卒業式
みなさん、こんにちは!こんばんは!おはようございます!
ふたつの痛みの病に侵され、痛みに呪われたflutist_umakoです。
前回の記事で夜空にきらめくスマイルマーク...
結局あのスマイルマークは私の卒業試験を通らなかったことを励ますようにあったということが分かりましたね。
でも、裏の手を使って!?何とか卒業できることに。
という事で、言語聴覚士の国家試験はその年は諦めたので、必死に国試の勉強に明け暮れるともだちを後目にゆったりとした時間を過ごしていました。
大学生活で得たBEST FRIEND!!
ちょっと時間は戻りますが同じ年度の2008年11月、私は何でかは忘れ去りましたが、とにかく自分の大学の大学病院に入院していました。
私の同期が卒業した後も、在学時代から親友だったAもNも優秀だったため大学の関連施設に勤めていました。
こどもが大好きなAは、大学の敷地内にある言語聴覚センターで小児を中心としたリハビリの仕事に従事していました。
そしてもうひとりNは、成人言語・高次脳機能障害の研究をさらに続けるため大学院へ進学し、日中は大学病院のリハビリテーション科で勤めていました。
ふたりとも私の復学後の臨床実習のお話をした時に出てきたと思いますが、同期にして、親友の背中を見て私は卒業にこぎつけた訳であります。
さてさて、この画像は入院中にAの誕生日のお祝いを私とNがした時のものです。
ジブリ大好き!トトロ大好き!のAには、ジブリのいろんなDVDを。
そして、ケーキも忘れずにね!
復学してからもどれだけこの二人の存在に支えられたことか、知ってた?
感謝の謝恩会
卒業式を前に学科の謝恩会が開かれ、私は母とともに出席しました。
入学したころと先生方のメンバーは変われど、最初から障害のあった私、卒業が絶望的になった私を応援し支えてくれた先生方がこちらです。
謝恩会では私も感謝の気持ちを伝える機会を与えてもらいました。
最初の先生方の話、学生の話、私の話が終わると歓談タイムに。
そこで近づいてきたのが、復学の際に最初に反対した教授。
その先生が、私たち親子に言いました。
「あの時の私の判断は間違っていた。人はそれぞれ違うのだからその人に合った方法を考えるべきだった」
と驚きのお祝いを言われました。
学科長からも、
「umakoさんは3年生まではよかったんだけどね…」
という軽いジャブの後に、
「学生の多様性を尊重することを忘れていたのかもしれません」
と、またまた驚きの言葉とともに、「そ、それはこの場では言わないで」という事までみんなの前で暴露されてしまいました笑。
それぞれの先生にみんながそれぞれの感謝の言葉を伝え、謝恩会は私たち親子には驚きのうちに終わりました。
この日に向けて歩いてきた卒業式
残念ながら卒業式の写真は表紙に使ったものくらい。
とにかく目まぐるしい1日だったので、なかなかゆっくり写真を撮る事ができないこともあったり、また、この年度はほとんど山梨に帰っていたので、同級生の顔と名前が一致しているのは私と一緒に留年した学生くらいで…。
卒業式は大学と大学院両方同時に行われた全体会と、学科で行われる卒業証書授与式の2回に分かれていた。
本来全体の卒業式は、各学科の代表と大学院の修士・博士課程を終えた院生全員のはずでしたが、私にもお声がかかり体育館に行くとなんと私の席は端とはいえ一番前!
すると、学長の祝辞の中に私のエピソードが入っていてビックリ!!
それで呼ばれたのかにゃ?
でも出来損ないの私の話をしてくれたなんて感謝です。
そして学科で行われた学位所授与式では、学位所とは別に学科長から、
「よくここまで来ましたね、おめでとう」
とお祝いの言葉をいただき、表彰されてしまいました。
ビックリもですが、これには「私卒業できるんだ」と感極まって泣いてしまいました。
あの私がここを卒業できたんだ...長かったけれど楽しくあり後半は苦しくもあった私の大好きなこの大学にありがとうです。
ありがとう!~そばにいてくれた先生~
まずは大橋一之先生、歯科・口腔外科の先生で、私の大学生活で真っ先に入院したのが整形外科でも麻酔科でもなく歯科でした。
それは大学に入学して1ヶ月もしない時に私の歯に膿が溜まってしまい、入院するように言われたからです。
入院生活は短いものでしたが、大橋先生にはその後も服薬の関係で虫歯になりやすい私の歯を何度も治療していただいたり、講義のお手伝いをしたり、いつもの3人で夕ご飯をごちそうになった、なんてこともありました。
私が車いすから診察台にひとりで移るのが難しくなってくると、
「このままでだいじ(大丈夫)だよ」
と、先生が身体をくねらせてすごい格好をしながら治療してくれました。
今でも私の事を気にしてくださるとても優しい、栃木県の方言満載な先生です笑。
ありがとう!~確定診断に至った先生~
私がまずCRPSと分かってから私の痛みを理解してくれた先生がこちら。
当時は国際医療福祉大学大学病院の麻酔科にいて、私の休学の途中から自治医科大学日光医療センターの立ち上げのために移動した緑川由紀夫先生です。
以前の病気との闘いシリーズに載せましたが、私が線維筋痛症を発症(もともと軽度の線維筋痛症だったのでは?という意見もありますが)し、何で身体中が1日良くなることなく痛いのか私だけでなく家族や先生もが頭を抱えていた時に、各方面の専門家に相談をしてくれ、結果確定診断に至りました。
この先生なくしては、もしかしたら今もまだなお訳の分からない闇のような状態をただよっていたかもしれません。
ちなみにこの写真は私が卒業する時に日光まで先生に会いに行った時のです。
みなさんお気づきですか?
そう、ここ手術室の中なんです笑。
もちろん、衛生区域(手術台があるところ)の外ですが、扉の向こうがまさに手術室というところまで休日だったため入れてくれました。
お茶目でチャーミングな先生でした、感謝です。
ありがとう!~復学後の私を支えた先生~
復学後の私を支えてくれた人は先述したように、教授、中でもアドバイザーだった教授、医師、私よりずっと若いともだち、そして先に卒業しながら奇遇にも近くにいて支えてくれた同期の親友と数えきれないほどいます。
その誰もに甲乙をつけるわけではありませんが、私が卒業できた、つまり復学できたその教授、医師でもあり、私の年のちょっと離れた兄のような存在はこちらの方です。
この教授は何を隠そう私が復学する時に、
「umakoさんにあったやり方を考えれば、復学できる」
「私たちがバックアップするから!」
と学科の先生や私たち親子を後押しをしてくれた前田眞治先生です。
もちろん学科の先生方にも本当に感謝していますが、私が復学できたのも支えてくれたのもこの前田先生でした。
私は線維筋痛症の随伴症状の酷い倦怠感で、大学内の施設に住みながら、同じ大学の教室に出ていけない時、
「それじゃぁ卒業できないぞ」
と、わざわざ施設の私の部屋まで私を起こし、車いすに乗せ、荷物を持たせ、私を施設の外にポイっと投げる…違う違う、背中を押してくれました。
こんなことしてくれる大学の先生はいないんじゃないかと思います、感謝です。
終わりに
今回ここに書ききれなかったお世話になった人は書ききれないほどいます。
そう、実は栃木の下野新聞と山梨の山梨日日新聞に、
「障害を乗り越え二人三脚でゴール」
みたいな記事が載りました。
今思うと何で私の卒業が新聞社の耳に入ったのか、今となっては謎です。
今回私の記事を書いて私はこんなにもたくさんの人にお世話になったのかと書きながら感じました。
と、同時に私はそのひとりひとりの人たちに今思っているほど心を込めて、卒業できたことは幸せなことだと感じながらありがとうが言えたか不安になりました。
どこか当然だとおごった気持だったのではないかと。
だから遅くなりましたが今こそ、しっかりこの場を持って「ありがとう」と伝えたいと思います。
つたない記事ですが、サポートしていただくと俄然やる気が出ます!!🙂🎶 私の"やる気スイッチ"も入りますので、あなたの心に響いたらぜひよろしくお願いします。