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6.仏教と科学(唯識論と量子論の類似点)
上の写真では主虹の外側に副虹が見えます。副虹は水滴の中で光が二度反射してできますので、色の順序が逆になっています。
前回までは1/fゆらぎがどの様にして発生するのかという問題に対する私の考えを述べてきました。その結論は一言でいうと、因果関係の連鎖上にある現象の一部のみを観測した場合に観測された事象のゆらぎが1/f ゆらぎとなるということでありました。この場合観測された個々の事象間の関係は必ずしも明らかではありません。実際の場合でも私達が身の周りの事柄を認識するということは、現象の全てではなく一部のみを観測するということですから、上記のモデルと同じ状況にあります。私達が認識するのは大きな因果関係の連鎖上にある一部の事柄にしか過ぎないということです。したがってそれらの事柄間の関係は分かり易いものもあれば、関係性が分かり難いものもあります(俗に言う、風が吹いたら桶屋が儲かる、という関係)。この様な理由により私達の周りでは1/f ゆらぎがしばしば見受けられるのです。これらの状況は仏教における縁起の法を彷彿とさせます。そこで1/f ゆらぎと仏教との類似性あるいは関連性について考えてみたいのですが、その前に大乗仏教の一つの見解である「唯識論」について、またその唯識論と共通点があると私が思う物理学の「量子もつれ」について考えます。更に多くの場合私達の考えの根底に前提としてある「時間」についてどの様に考えればよいのかと言う問題に触れたいと思います。
☞唯識論
仏教では「諸行無常」や「色即是空」という言葉に表されるように、全てのものに実体がないと考えます。それならば実体のないものが輪廻転生するのは何故か、或いは「悟りの境地に達する」という言い方がありますが、実体のない何がそのような境地に達するのかという疑問が生じます。
この疑問に対する回答として大乗仏教の一つの見解である唯識論があります。私達は眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・身識(触覚)などの五つの感覚と意識(自覚的意識)によって周囲の事柄を認識します。これらを合わせって六識と言います。さらにその背後に自己執着心を起こす末那識(まなしき)という迷いの根源となる意識が常に働いています。唯識論ではその更に奥にある根本の認識作用として阿頼耶識(あらやしき)を考え、それこそが輪廻転生などの主体であると考えます。
仏教の根本教理である縁起の法によりますと、身口意(しんくい、身体・言語・意思)に関わる行為である三業(ごう、karma)は因(原因)と縁(作用)によって結び付けられた連鎖上でそれ相応の「果」として生じると考えられています。仏教ではこの様に行為の結果は、偶然に生じたり万能の神によるある意味で恣意的な罰や恩賞として生じるのではなく、必ず因果の道理によって生じると考えるのです。唯識論では因や縁は種子(しゅうじ)として阿頼耶識の中に包蔵され、しばらく後に「果」として生起します。従って業とその果報との間の因果関係が明確に認識されるとは限らないのです。
唯識論では物事は一瞬々々に生滅し、過去の存在も未来の存在も何一つ確証はなく、自分の手で触れ、目で見ることのできる現時点での物事だけが実有(じつう)であると考えます。もしそうであるなら、例えば眠っている時には世界の存在を確証できませんが、その間世界はないかと言えばそんなことはありません。世界は存在しているのです。そのためには一瞬々々不断にこれを保障する何者かがなければなりません。唯識論ではそれこそが阿頼耶識であり、自己と自己を取り巻く自然界の全存在はこの阿頼耶識が姿を変えて現れたものだとするのです。従って一切のものは阿頼耶識によって存在し、阿頼耶識があるから一切のものはあり、阿頼耶識は滅びることがないと考えます。現在の一瞬の世界は次の時刻には一旦滅してまた新たな世界が立ち現れる。阿頼耶識の種子が七識(六識と末那識)を生み出し、その七識が阿頼耶識の中に新たな種子を作る。この様に阿頼耶識の種子と七識が相互に因果となり合うのです。阿頼耶識の中の種子は相互に作用して新たな種子を生み出すこともあります。肉体が滅びても阿頼耶識は続いてゆき、蓄えられた種子によって次の世界を生み出してゆきます。このようにして私達は生死を繰り返し、輪廻転生してゆくのです。また種子と七識の関係や阿頼耶識の中での種子の間の関係は非常に複雑なので、ある一瞬の後の時刻にどのような世界が現れるのかを予想するのは非常に困難ですが、縁起の法には則っているのです。また私達は他の人と同じ世界を見ているとも限りません。阿頼耶識内の種子は各自異なるので一人ひとり異なる果を生み出し、各自が異なる世界を見ているのです。
因みに唯識論では、[識]があるのではなく「識る」という作用があるだけで、「識」は必ず認識対象(境)を持つものと捉えます。例えば何かを見ているとき、見て視覚が起こったとは考えずに、唯「見ている」だけと考えるのです。だから上記のように、阿頼耶識の種子の果を七識が認識するとは表現せずに七識を生み出すと表現するのです。そして唯識の目指す境地は、認識主体(識)と認識対象の関係で、まず「唯だ認識主体があり、認識対象はない」(唯識無境)から出発して「認識対象がないので認識主体もない」(境無識無)という心境になり、その心境を深めて最終的に有無を超えた「空」に至ることです。このことは般若心経にも書かれている通りです。すべてのことを削り取り更にその削り取ったことも削った後には有無を超越した「空」という深い理性を持った智慧が身に着き、苦のままで彼岸に至ることができるということが書かれていると思います。
このように滅びることのない阿頼耶識である世界を、現時点において七識として生み出されたものだけが実有だと考えるのですが、これは物理学の仮設である「コペンハーゲン解釈」によく似ていると思います。しかも驚くべきことに最近この仮説が観測によって実証されました。次にそのことに触れたいと思います。
☞量子もつれ
量子力学では粒子は空間の一点だけを占めるのではなく空間的広がりを持ち、各点ではその粒子は波動方程式(シュレディンガー方程式)から得られる確率を持って存在していると考えます。つまり粒子は様々な場所での存在確率を持った状態の重ね合わせとして表現されますが、観測されると状態の重ね合わせが崩れ、ある特定の一点に確率的に収縮します。この事実を「人間が観測することによって、広がっている波動が収縮して粒子として見える」と説明する考え方がコペンハーゲン解釈であり、すべての観測結果がそれを支持しています。このように意識を持っている人間が観測することによって、その一瞬には一点だけを占める粒子と認識されるが次の時刻にはまた別の存在となるのならば、これは唯識論の考え方に極めて近いのではないでしょうか。しかしこの波の収縮がいつ、どのようにして起こるのかは明らかではありません。この観測される現象が偶然性による曖昧さにより長い間量子力学の正当性に疑問が投げかけられて来ました。この故にアインシュタインは量子力学は間違っていると批判して「神はサイコロを振らない」と言ったのは有名な話です。なぜなら物体は観測されたかどうかにかかわらず決定論的に特定の場所に客観的なものとして存在していなければならないはずで、特定の場所ではなくあらゆる場所にある確率を持って存在するということはありえないと考えていたからです。
この様に量子力学の登場以来、観測するという行為そのものが現象自体を変化させることもあるという事が分かり、観測が単に現象を記録するという以上の意味を持つ事が明らかとなりました。観測手段を多数用意すれば常に世界全体を正しく知る事ができるとは限らないということです。通常我々が現象を認識する場合、現象の一部を観測してその結果から全体を推し量るという作業をしています。このことは観測している事柄以外の世界について我々は正しい知識を持っていないという事を意味しています。その意味で、「コペンハーゲン解釈」の考えは、我々は世界を表す阿頼耶識のうち七識として生み出された以外の世界についての知識は何一つ持っていないという唯識論の示す考えと非常によく似ています。
そこで観測による波の収縮が本当に起こっているのかどうかということを考えてみましょう。そのために「量子もつれ」という現象について説明したいと思います。
量子とは光の粒子(光子)や電子などのように非常に小さな物質で、粒子の性質と波動の性質を併せ持つものを言います。通常のボールなどの大きい物質も厳密には両方の性質を持っているのですが、あまりにも大きくて波動の性質が見えにくいと考えてもよいのかもしれません。
先ほど述べたアインシュタインの疑問に答える形で、デヴィッド・ボームはシュレディンガー方程式を再構成し、2つ以上の粒子が存在すると量子もつれが生じることを示しました。量子もつれとは、2つ以上の粒子が量子力学的な相関を持ち、それらの間に強い結びつきができる現象です。 いったん粒子間に量子もつれの関係ができると、どんなに遠く引き離されてもその関係は保たれ、 一方の粒子の状態を測定するともう一方の粒子の状態が瞬時に決定される現象です。しかしこの時点で量子もつれを観測で実証することは不可能でした。
1964年にジョン・スチュワート・ベルがアインシュタインの考えが正しければ成り立つ「ベルの不等式」を提案しました。この提案に刺激されてジョン・クラウザー、アラン・アスペ、アントン・ツァイリンガーの3人がそれぞれ独立に実験で「ベルの不等式」が成り立っていないことを突き止めました。つまり量子力学は正しくてアインシュタインの考えが間違っていることが証明されたのです。このことは量子の実体は観測されて初めて決まるのであって、観測されるまでは確定していないということを意味しています。しかも2つの光子が数十億光年離れていても一方の光子の状態が観測されれば、瞬時にもう片方の光子の状態が決まるということも明らかになりました。つまり量子もつれの関係は例え宇宙の端と端とに離れていても瞬時に伝わるということです。これはどういうことでしょうか。ボールを例えにとって説明してみましょう。
下の図で中心Cの箱の中に赤と白のボールが1つずつあったとしましょう。中心CからAとBの方向に同時にボールが投げられたとします。Aでボールを受け取った時その色が赤だったとしましょう。すると当然Bではボールの色は白のはずです。通常は赤のボールがAの方向に、白のボールはBの方向に投げられたのだと考えます。しかし上記の三人の観測結果が示しているのは、ボールはAで受け取られた瞬間に赤と観測され、それと同時にBでのボールに色は白と決まるということです。2つのボールは一方が赤で他方が白という関係性だけは決まっている(量子もつれ)が、それらの色はボールがAとBに到達するまでは決まっていなくて、それぞれが赤と白の2つの色の性質を同時に持っているということです。そして一方の状態、例えばAでのボールの色が観測された瞬間にもう一方の色も、一切観測されることなく、自動的に決まるということです。しかもこの関係はAとBが何兆キロメートル離れていても瞬時に決まるということです。相対論によると、AからBへの情報の伝達速度は最大でも光の速さを超えることはありません。したがって瞬時ということは、相互の関係はAとBの間の空間を逐次伝わってゆくということではなく、各点において同時に非局在的に決まるということです。
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現時点で量子もつれの現象があるということは証明されたのですが、それでも依然として波動の収縮や量子もつれの仕組みは不明で、将来の課題として残ります。おそらくフォン・ノイマンが指摘しているように、量子力学の枠組みでは理論的に導けないのかもしれません。
このように実際の世界でも物質の状態は観測されて初めて決まるのであって、観測されるまでは確定していないということが実験を通して証明されました。このことは阿頼耶識から我々の世界認識としての七識が生じる状況と実によく似ていないでしょうか。
☞時間
次に時間をどの様に解釈すればよいのかを考えてみましょう。唯識論では一瞬毎に時間が順を追って進んでゆくことが大前提になっています。しかしこの時間というものが厄介な問題を抱えているのです。
この宇宙は時間と三方向の空間から成る四次元時空空間だということになっています。この中で三方向の空間には前後左右上下と自由に移動できますが、時間軸方向には過去から未来方向へと一方向にしか進むことができません。このように時間が一方向にしか進まない現象を「時間の矢」といいます。時間の矢は一体何故生まれるのでしょうか。実際に物理学で論議する様々な方程式で時間の変数tを-tとしても、その式は成り立ちます。位置変数xを-xとしたのと何ら違いはありません。つまり空間座標と同じように、時間の方向を逆にしても全く同じ方程式が成り立つのです。これは時間についても空間と同じように+ーどちらも特別な方向はないということを意味しています。時間の矢の問題は物理学の未解決問題の1つではありますが、次のような説明の仕方があります。
私達は時間をどの様にして認識しているのでしょうか。時間は何かの動きを通して認識しているのではありませんか。動きのない所に時間という概念は生まれません。また時間の記録は何らかの一定時間間隔の運動(振り子など)が利用されています。この様に時間という概念は物体の運動が持つ性質を説明するために導入されたものであり、時間そのものには方向はありませんが運動が全体として不可逆的に起こるために、時間には方向があるように見えるのです。通常、運動は起こり得る可能性の大きい方へと進みます。例えば水の入ったコップにインクを一滴垂らしたとします。直後は水の表面近くにインクが偏在していてコップの中の水は澄んだままです。しかし時間の経過とともにインクは水の中に広がってゆき、いずれコップ全体に広がってゆきます。
簡単化するために最初インクが一点に偏在しているとしましょう。そうすると多数のインク分子が一点に集まる場合の数はただ一つですが、コップ中に各分子が広がる場合の数は数え切れません。A, B, Cの3つの分子しかなくまた分子の取りうる空間位置もX1, X2, X3しかない場合を考えてみましょう。AがX1にBがX2にCがX3の位置にある場合もあれば、AがX2にBがX1にCがX3の位置にある場合もあり、またAがX1にBがX3にCがX2の位置にある場合もあります。このようにして3つの分子でも6通りの組み合わせがあるのです。一滴のインクの中には膨大な数の分子があります。その分子がそれぞれコップの中の任意の位置にある組み合わせは膨大な数です。はじめ一点にあり整然とした状態のインク分子は、場合の数が膨大であるコップ中に広がってゆき、乱雑でバラバラである状態となるのです。逆にコップ中に広がったインク分子がたった1つの場合しかない一点に集まることはありません。このように分子全体の動きは不可逆的なのです。古の人も”覆水盆に返らず”と言っています。このような乱雑さの指標をエントロピーと言い、運動はエントロピーが増加するように(乱雑な状態へと)進みます。だから運動を通して時間を認識している我々には、時間は一方向にしか進まないように感じられるのです。このような説明による時間の一方向性を「熱力学的時間の矢」といいます。
私達生き物の身体は整然としていますが、もし何もしなければバラバラになり生命を維持できません。しかし食べることにより外部からエネルギーを補給してバラバラにならずに整然と保つようにして命を維持しているのです。このように生き物は外部からエネルギーを補充することによって体内のエントロピーの増加を防いでいる代わりに、食物などの整然としたものを熱や排泄物などの整然としてないものに変えて外部にはき出し、体外のエントロピーを増加させているのです。
これとは別に量子もつれを用いて時間の矢を説明することも試みられています。そこでは宇宙が始まった時には量子もつれは少なかったとし、宇宙が進化するとともに量子もつれと量子もつれの崩壊がともに増えると考えます。量子もつれの崩壊は後戻りできない変化(不可逆的プロセス)なので時間は前にしか進まないという考えのようです。
相対性理論で明らかにされたように、どのような運動状態から見ても(静止或いはある速さで動いていても)光の速さは一定でc=30万km/secです。そして時間と空間を一緒に取り扱い時間経過も運動の一部と考えると、特に静止状態では物体は空間方向には動いていないが時間方向には光速で移動していると考えられます。時間経過も運動の一部だということは、物体は時空空間中を必ず動いていて、その運動状態は時空を移動する一本の線として表されるという事です。この線を「世界線」と称して、空間的に動かない運動は世界線が時間軸と平行となり、空間軸とは直角に交わります。物体が空間方向、例えばx軸方向に動けば世界線はx軸方向に傾き、光速は一定なので、その方向の速さが光速cとなり、その分だけ時間方向の移動が小さくなる(時間がゆっくり進む)。つまり空間方向の移動は時間経過と同じ意味を持っているのです。
一般相対性理論によると時空と重力は関係していて、質量のある物体の近くでは時空という空間そのものが曲がっています。物体は何もしなければ時空の最短ルート(曲がった空間では曲がったルート)を進むので、重力は時間経過そのものだと言えます。このように時間は重力もしくは物体の運動と表裏一体の関係にあると考えられます。宇宙空間が完全に一様で、運動というものが生まれない状態では時間という概念は生じません。この様に何事かの時間経過を考えるということは、宇宙空間が一様ではなく所々の空間が曲がっていて、運動が生じているということが前提になっている様に思われます。
この唯識論の考え方や時間の進行方向を自明的だと考えないことが、仏教の教義が他の考え方などと別個で特別なものだという認識を変えることができる、つまり仏教の教義が我々人間の持っている論理性と矛盾しない考えであることを説明できると思っています。
さていよいよ次回は1/fゆらぎと仏教の縁起の法との関係を考えてみましょう。