いのちをみつめる
コロナで世界が変わってから、もう一年。
そして私の大好きな友人が肉体を離れてちょうど一年。
気づいたら、振り返る時間が増えていました。
その流れで私はオンライン瞑想会を始めることになったので、いつかこのことを書きたいな〜と思っていたけど、色々な思いが溢れてまとまらず...。でも忘れたくないし、しっかり振り返って、ここに書いておこうと思う。上手くまとまらないけど。
友人は最後は苺ばかり食べてたので、ここでは”いちごちゃん”と呼びます。
いちごちゃんとの出会いは高校生の時、いわゆるギャル全盛期で、私も金髪とかメッシュに、黒い肌に、ルーズソックスを履いて、彼女は当時の高校生ならみんな知ってるような子で、めちゃくちゃギャルで超絶可愛い!んだけど、中身はサバサバしててイタズラ少年ぽい印象でした。
卒業してからは野外パーティーやクラブにハマって、たま〜に合流してみんなで遊ぶ関係。
それから彼女は私の地元の先輩と結婚し、男の子を年子で二人出産。
3.11と、子供の喘息を機に奄美大島へ母子だけで移住するとは聞いたけど、お互い目の前のことに追われてて、しばらくは連絡を取ってませんでした。
いちごちゃんが関東に戻ってからFacebookで繋がって14年ぶり?!に再会した時に、彼女は奄美から戻ってから、乳がんで摘出手術をしたこと、私は離婚したことを報告。
ホルモンの薬を飲んでいたり、なんとなく本調子ではないことはわかりましたが、すっかり前を向いていて、麻の服づくりも始めて楽しそうでした。
しかし、その後すぐに、癌が首やリンパに再発。
低刺激の放射線治療に通った後は、悩んだ結果、副作用の少ない抗がん剤を選んでました。
それからの3年は体調が少し悪いときもあれば、いい時もあり、忙しかったりで、会えない時期もありながら、彼女も調子良く動ける時は仕事もしてたし、国内外に旅もしていた。
一時期は私のトリートメントを受けに来てくれるタイミングで、veganランチするのがお決まりだった。
私はいちごちゃんが絶対良くなると信じていたし、彼女にいいと思ったリラックス法や養生法をシェアしながらも、会える時は美味しいご飯を食べて、おしゃべりして、普通に楽しい時間を過ごしてました。
会える時は結構元気なんだけど、腫瘍マーカーの数値は上がり続けてたらしく
徐々に咳が出るようになったり、片目がぼやけて見えにくくなってると言ってたのが、心配ではありました。
2019の夏には一緒にいちごちゃんの心の故郷、奄美大島に行こうと誘ってくれて、少し咳は出てて、薬を飲んではいたけど、普通に楽しく遊べるくらい元気だったので、アラフォー女三人で貴重な旅をしました。
いちごちゃんのアテンドのおかげで、奄美の夏を過ごし、素晴らしい自然と、温かい島の人たち...本当に最高の思い出になった。
私もいちごちゃんも旅と自然が大好きで、美味しくてヘルシーなものが好きで、一緒に行った奄美の旅は最高すぎて、島の神様に何回も”ありがっさまりょうたー!”と言っていた。(ありがとうございますの意味)
しかしその後の秋頃から肺炎になったり、咳もひどくなり、苦しそうに。肺への転移が広がっていたんだと思う。
抗がん剤やお薬で胃腸も疲れてたので、断食合宿に行ったり、大分で湯治と温熱療法など色々なことを試していたけど、年末にはまた悪化。
年明け早々には肺に水が溜まっていることがわかり、呼吸が苦しくて、とても出かけられないし、もう仰向けでは寝られなくなっちゃった...
と連絡が来たので、少しでも楽になるなら...といちごちゃんの家にレインドロップの施術しに行くことを決めました。
二ヶ月ぶりに会った彼女は、食欲も落ちていて、眠りも浅くなってるとのことで、すっかり痩せていて、酸素の吸入器も使うようになっていた。
本人からハッキリとは聞いていなかったけど、旦那さんの話のよると、もう末期癌で何もできることが無いと医者に言われたこと、いつどうなるかは直前にならないと解らないらしいと聞き、それはショックだったけど、私は信じたくなくて、まだ可能性があると思いたかった。
コロナが拡大していく中で、彼女に何かあってはというのも心配だったけど、できるだけの対策もして、週に1回施術に行くことにした。行くたびにガリガリに痩せていく彼女を見るのは本当にきつかった。
でも私が暗くなっちゃいけないと、気を張って元気にふるまっていた。
それに、私に出来ることはトリートメントくらいしか無いという気持ちだった。
それでも感情が溢れてしまい、トリートメントしながら密かに涙を流してたり、時にはそれでも今ここに、彼女は生きてるんだということを強く感じたりもした。
トリートメントの後は”身体が広がって久しぶりにたくさんご飯が食べれた〜”とか、”久しぶりによく寝れたよ”とか、”今日は大地を感じたよ”とか必ず明るいメッセージを感謝の言葉とともにくれた。
こまめにLINEでやり取りしてたけど、体調には多少の波があるが、基本は苦しそうだった。
ネットで調べると、肺に水が溜まってしまうと呼吸を妨げるので常に溺れてるような非常に苦しい状態らしい。
旦那さんからは話し合って遺影は決めたよと聞いたし、本人も、もうダメかもしれない、自分で解ると言ってもいた。
変わり果てた姿を見せたくない気持ちもあっただろうけど、喋るのもきつい状態だったと思うけど、最後になるかもしれないし、私のパートナーと一緒に会いに行ったり、古くからの友人達と一緒に会いに行ったりもした。
たまたまパートナーの描いた絵を見て、すごく感動してたので、パートナーは彼女のために絵を描き始めた。
短い時間でも、友達に会えて嬉しい気持ちや、絵で感動することは、彼女の心に響いて、元気になるのが伝わってきた。波動が上がるとはまさにこのことだ!
しばらくは昨日はこれだけ食べれたよ!とか、頑張ってお風呂入ったよ!とか体重が増えたよ!とかメッセージをくれて、気持ちはとても前向きに変わってきていた。
でもどんどん足がむくんだり、お腹が膨らんだり、あらゆる機能が低下してきてるのもわかっていた。
そして一時期からLINEの文章がすごく短かったり、返信が遅かったりしだし、モルヒネのせいかな?と思ってたところ、突然旦那さんから連絡があり、今週が山場だと言われたから早めにおいでよと言われ、動揺しながらもすぐにパートナーと会いに行った。
しかも、それはちょうど彼女のために描いた絵が完成した日だった。
酸素マスクをつけて、携帯を持って家のベッドに寝てる小さい彼女をみて、ああ、これが最後なんだなとわかった。
少しの時間、意識の波がハッキリするのを待って、旦那さんが彼女を抱えるように支えながら座って、私が足をマッサージしてる間、私と旦那さんは涙が止まらなかった。
彼女の意識もかなり朦朧としていたけど、彼が完成した絵を見せたら、すごい、綺麗...と嬉しそうに見つめていた。
インスピレーションに任せて、出来上がった彼の絵には鳳凰が描かれていた。
モルヒネで少しの間は起きれるからと、最後にテーブルに移動して、一緒にお茶を飲んでるときは、他の友達の心配をしたり、私のパートナーに疲れたでしょ?とか声をかけていたな〜。それ以外の会話は覚えていない。
ちょうど往診のお医者さんがきて、家での看取りについてのプリントを置いていった。
私はいつまでも彼女のそばにいて、ただ寄り添っていたかったけど、もう帰ろうかとパートナーに言われて、我に返った。
ああ、そうだった、家族の最後の時間を邪魔してはいけない!と。
旦那さん、中学生と高校生の息子くんたちが彼女にそっと寄り添っていた。
また意識は朦朧としてきて、テーブルにもたれながら椅子に座ってる彼女に、名残り惜しくて、きっと生きてるいちごちゃんに会えるのは最後なのに、なんて挨拶したらいいのか解らず、『じゃあ、帰るね、またね!』と言いハグをした。
旦那さんからは明後日、結婚記念日なんだ〜と聞いた。きっと彼女は記念日まで頑張るだろうと思った。
旦那さんとも泣きながらハグして別れて、
彼女に『ありがとう。大好きだよ。』と最後のLINEをしてみたけど既読にならないままだった。
二日後、結婚記念日でエイプリルフールの4/1の早朝、彼女が亡くなったと旦那さんから連絡があった。
まだ39歳になったばかりだった。
結婚記念日に、エイプリルフールに旅立つなんて、頑張り屋で、いたずらっ子な彼女らしいと思ってしまった。
数日間、私はよくこんなに涙が出るもんだという位、たくさん泣いた。
もっと一緒に遊びたかったし、一緒におばあちゃんになって遊んでたかったな〜。
でも最後は本当に、想像を絶するくらい苦しそうな状態だったから、苦しみや痛みから解放されたんだな〜とも思えたし、家族とお家で最後を迎えられて良かったとも思った。
最後のLINEは既読にならなかったけど、遡って読み返したら、お互いに愛してると伝えていたし、心からのありがとうも伝えていた。良かった。
それが言えてなかったら...後悔してたかもしれないから。
②へつづく
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