日暮里の駄菓子問屋街と子どもたちが集う場所の記憶が、失われませんように
以前、母がやっていた文房具屋兼駄菓子屋のことについて、書いたことがある。
日曜日が仕入れの日。朝5時前には家を出て、日暮里の問屋街に向かう。顔なじみの問屋のおじちゃん、おばちゃんは、私たち姉妹にはいつも何かおまけをくれた。冬の早朝はものすごく寒いので、問屋のおばちゃんが一斗缶で焚火をしてくれて、みんなでそこで暖をとる。仕入れが終わると、車のトランクはもちろん、後部座席の窓の部分まできちきちに駄菓子屋を詰め込んで帰る。仕入れたお菓子は居間の押入れにしまう。そんな一連の仕入れや毎日の品出しを手伝うのが、私たち姉妹の日常だった。
こんな風に、わが家は毎週日曜日、日暮里の駄菓子問屋街に仕入れに行っていた。そのとき、駄菓子だけでなく、玩具やプラモデルも仕入れていた。
プラモデルといえば、私たちが小学生のときはガンダムのプラモデルの最盛期。私は女子だったのでハマってはいないが、男の子たちからの異常な人気をいつも見ていた。お店で売っていたガンダムのプラモデルは、予約のみで売り切れる。店内には数人座れるスペースがあったので、そこでガンプラを購入した男の子たちはその場で買ったプラモデルを組み立てていたりした。もちろん、ガンプラに限らず、飛行機や車など、通常のプラモデルも販売していたが、ガンプラ人気は飛びぬけていて異常だった。
さて、そんなプラモデルを仕入れていた問屋さんについて。
「日暮里」「駄菓子問屋街」でGoogleの画像検索していただけるとイメージがわかるのだが、問屋街はごちゃっと商品を並べている小さなお店が軒を連ねていて、そういう問屋さんが並んでいる小道が何本かある。イメージとしては新宿のゴールデン街に似ている(と私は思う)。あの道のせまさと、お店のせまさ。それをさらにもっとごちゃごちゃっとさせたような感じだ。プラモデルの卸問屋さんは、そんな駄菓子問屋街の少し奥まった小道に、何軒かあった。
1つひとつのお店は小さい。奥に細長く、人がぎりぎりすれ違えるかどうかくらいのせまい通路が真ん中にあり、両脇の壁は、様々なプラモデルの箱が、ジェンガのように積み上げられていて、今にも崩れ落ちてきそうだった。狭い通路の一番奥に店主さんがいて(だいたいおじさんなのだが)、予約していたのを取りに来ましたと名前を伝えると、ごそごそっと奥の方から出してくれる。
ガンプラ人気は当時本当にすごいことになっていたので、いくつでも売ってくれるわけじゃなく、お店ごとに割り当てのようなものがあって、仕入れられる数は限られていた。私がもし男の子だったら、このプラモデル問屋さんは夢の国だっただろう。たまにおまけだよと言って、何かのプラモデルをくれることがあったが、残念ながらほとんど興味がなかったので、どうしたんだかまったく覚えていない。
ちなみに、ガンプラと同じくらい、当時の子どもたちが夢中になっていたのが、少年ジャンプだ。こちらも私が小学生時代は全盛期だろう。お店では雑誌も販売していたので、少年ジャンプももちろん売っていた。たしか発売日の前日だか前々日だかに配達されてくるのだが、予約分で売り切れだから店頭には並べない。お店の奥の部屋にしまっておいた。その取り置きのジャンプを、自分が読みたい連載だけ、こっそり読んでいた。
母のやっていたお店を思い出すとき、そこには子どもたちの遊んでいる姿ばかりが浮かんでくる。ガンプラ、ジャンプだけでなく、コカコーラのバンバンボールやヨーヨーの大会をお店の前でやっていたこともあった。ガチャガチャにも、いつも子供たちが集まっていた。
日暮里の問屋街はすでに再開発でなくなっているし、自分の記憶も今後ますます加速度的に薄れていくだろう。
そんな記憶の中の、プラモデル問屋さんの入り口から見た店内や、落ちて来そうなほど積み上げられたプラモデルの箱たちの記憶は、すでにセピア色の写真のように色あせつつある。完全にその記憶がなくなってしまう前に、こうして少しでも書き残しておけてよかった。
さらに、子どもたちが集っていたうちのお店という「場所」の記憶は、なるべくならすみずみまで、ずっと自分のなかに残っていてほしい。思い出すたびに、ふわっとほわっとした気持ちになれそうだし、当時はいやだったけど、今思うととっても、とっても大切な場所だったと思えるから。