鳥の鳴き声と、私と、純粋経験と

先日のことだ。神社にお参りに行くと、複数のカラスが輪唱のように鳴いていた。それに合わせて、名前も知らない鳥たちの声が聞こえてきた。雨上がりには鳥がよく鳴く。

私はそんな鳥たちの声を聞きながら、鳥の名前とその鳴き声を知っていたら、こんな散歩ももっと楽しく豊かになるのではないかと思った。

だが、そこでふと考える。

たとえばそれが、ヒヨドリの鳴き声だと知っていることと知らないことで、聞こえ方は変わってくるのだろうか。聞こえる音がもっと美しく響いてくるのだろうか。

同じようなことは、例えば花や植物でもそうだ。毎日のように近所を散歩していると、自分が知らない植物がたくさん生えていることに気づく。雑草であっても、人の家で育てられている何らかの植物であっても、自分が名前を知っているのはごくわずかで、知らない種類の方が圧倒的に多い。

そういう風に名前を知らないまま出会う植物と、その植物の名前を知っているのとでは、見え方は変わるのだろうか。

名前とか、たとえば文字になった「ヒョーイ、ヒョーイ」というような鳴き声を知っていることによって、もしかしたらこぼれ落ちるものもあるのではないか。

神社の参道でそんなことを思い、立ち止まって耳を澄ませてみたものの、「何という鳥の鳴き声なんだろう?」という疑問が、今ここの感覚を押さえつけるくらい大きくなってくる。

その鳥たちの名前を知らなくても、その鳥たちの姿が見えなくても、今この瞬間聞こえてきている鳴き声そのもの、さえずりそのものを、もっとしっかり聞くこと。

どうしたらその体験そのものに没頭できるのだろうか。どうしたら目のまえのものをただ観て、今ここの音を言葉を介さずに聴けるのだろうか。

今この瞬間聞こえてくる音でさえ、その音の主の名前を思い浮かべている自分がいる。ただの音。ただのもの。

ただそれだけを体験するにはまだ何かが決定的に足りない。

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この文章は、先日実施したライティング・マラソンの20分で書いたものだ。20分なので考えていたことの入口だけなのだが、これは今の私にとって、とても大事なことだ。

現在学んでいるマインドフル瞑想療法の理論的背景は、西田幾多郎の哲学によっている。

その西田の考え方で「純粋経験」というものがある。

一般的な(西洋哲学的な)世界観では、私(主観)と世界(客観)が存在し、私(主観)が世界(客観)を経験するというのが、基本的な考え方だ。

だが、西田によると、まず経験が先にあり、その後で私(主観)と世界(客観)が分かれるという。

例えば、満月を見て美しいと思ったとき、「美しい」という経験がまずあり、このとき、私と満月の区別はない。だがその後「私は満月を見ている」と考え、そこではじめて私(主観)と満月(客観)に別れるのだ。その別れる前の経験を西田は「純粋経験」と呼び、その経験だけが実在していると考えた。

美しい風景に見とれているとき、何かに没頭しているとき、音楽に聞きほれているとき、よい香りに包まれているときなども、すべてはその経験だけが実在しているもので、そのときの私とその対象は一体となっており、「主客未分」の状態であると西田はいう。

これらは『善の研究』という西田の初期の著作で述べられている考え方で、この「純粋経験」は、宇宙全体の「善」が、個人の中に表れたものと西田はとらえている(ちょっと善についての詳細ははぶきます、すみません)。

けれども西田はのちに、この考え方を発展させ、「場所の論理」という考え方で世界をとらえていくようになる。

今、私はこの「場所の論理」を学びながら、世界をとらえなおしている。

「私」、「自分」、「自己」という言葉を、容易には使えなくなっていて、ちょっと文章を書きづらくなっている。

自分にとっては、OSを入れかえるようなことであり、家を解体して建て直すようなことであり、今まで自分だと思っていたものをいったん全部バラバラにするようなことだったりする。

まあそれはちょっと大げさかもしれないが、そういうドキドキするようなことを学んでいる最中に書いたのが冒頭の鳥の名前についての文章なので、残しておきたくてアップした次第です。


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大前みどり
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