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見えないんじゃなくて、見ようとしていなかったんだ

工事現場があると、ついついじいっと見いってしまう。

どちらかというと新しく作っている建設現場ではなく、これまであったものを壊している解体現場がいい。車や人の出入りが多いとき、警備の人ががっちり立っているときは無理だけど、可能なら写真を撮らせてもらっている。

解体工事を生業とされている方からしたら見慣れた景色かもしれないが、私のような一般市民からすると、そのときしか見られない特別な光景で、こういってはなんだけど、わくわくしちゃうのです。

子どものときに、台風がくるとなんだか楽しかったのと近いかもしれない(近年の気象状況を鑑みるとこんなことを言うのは憚れるのだけれども)。


これは、近所の解体中のマンション。数日前の写真。

普段は表から見えない、建物を支えている骨組みは、こんな風になっているんだなあと、しげしげと眺めてしまう。
自分がこれまで住んだいくつかのマンションも、こんな風になっていたのだろうなあと、思いを馳せつつも、近所の人にあやしまれるといけないので、ちょっとの時間でその場を立ち去った。許されるなら中を歩いてもっとじっくり、すみずみまで見たいものだ。


これは、麹町の日テレ前のセブンイレブン。解体というか改装だけど、昨年11月。

事務所に行くときにいつも利用しているコンビニ。まわりにオフィスが多いので、お昼どきは人がわんさかレジにならんでいて、ぷりぷりの八重桜の花びらみたいに賑やか場所なんだけど、商品も看板もなくなると、ほんとにただの無機質なコンクリの箱なんだなーと新鮮だった。

今はもちろん新装オープンしているので、より賑やかに、かつセブンの本社に近いので、最新の便利なコンビニになっている。関係ないけどここの近くでほんとによく芸能人と遭遇する。


これは、解体中の麹町の日本テレビ。昨年9月。

もともとテレビ局の中がどうなっていたのかは見たことがないのでわからないけど、ここは解体するだけで何カ月もかかっている。今現在も、絶賛工事中だ。結構な高層ビルが建つらしく、この場所でこんな光景はこの先何十年も見ることはないだろう。でも、このあたり、ただでさえ道がせまくて人通りが多いのに、どうなちゃうんだろう?

これは、渋谷駅の再開発の様子。昨年6月。

渋谷駅西口というのかな? 桜丘町方面とか、セルリアンタワーにいくときの歩道橋からの写真。

渋谷の駅の大規模再開発はこの何年もの間、ちょっとすごいことになっている。工事中の地下鉄と銀座線、ビル7階分くらいの乗り換えは辟易していたので終わってよかったけれど、新しい地下鉄の通路も、ダンジョンっぷりが数段増していて、たまに訪れるともはや、どこがどう変わって、元がどんなだったかまったく思い出せない。でも、昔の昭和・平成の渋谷を特に好きなわけでもないので(笑)、古くても新しくても、乗り換えがしやすければどちらでもいい。

解体した際に出る産業廃棄物は、処理場に運ばれる。これは埼玉県にある石坂産業さんという産業廃棄物処理場に見学に行ったときの写真。

石坂産業さんでは、こういった廃棄物を本当に丁寧に分類をして再資源化している。再資源化率は98%とのこと。申し込めばその工程を見学することができる。

自分が住んでいる家やマンション、働いている会社のビルや、利用している建物が、こんな風に壊されて、廃棄物として処理をされるところまでを想像したことがあるだろうか?

今回、いくつかの写真を見返していて、この記事を書こうと思って初めて、そういう「流れ」に思いが至った。

これは、自宅がある市内のクリーンセンター。プレスされた缶はこんな風にしてリサイクルにまわされる。

クリーンセンターは解体現場じゃないけど、見ていてあちこち興味が引かれる場所だ。

年末の大掃除や引っ越しのときに大量に出たごみを、自分ちの車で持ち込むことがある。最初に受付で処分する品目を紙に書いて申請する。そのあとごみをのせた車ごと重さを量る。決められた場所にそれぞれのごみを持っていって捨てたあと、また車ごと量り、差分の重さで処理料金が決まる。粗大ごみで出すより断然安く済むし、何よりそのプロセスがいちいちおもしろい。

余談だけれど、不燃ごみを処分するコーナーに行くと、2~3人の職員さんがいて、車から降ろしたものを渡したそばから、それを奥のスペースに向かって思いっきりぶん投げる。その度に、ガッシャーン、ガッコーン、ドガドガーンと、劇画のような大音響が鳴り響く。処分するためにこまかく砕く必要があるからだろうけど、その投げっぷりがほんとうにすごくて、思わず「私にもやらせてくださいっ!」と言いたくなる。

一方で「あああ、もったいない・・・」と胸が少しチクっともする。クリーンセンターの処分の現場を見るとよけいに、無駄なものは買わず、ものを大切に使おうという気持ちにもなる。


さて、あちこち寄り道をしたけれど、自分は、なんでそんなに解体現場の光景に、興味を覚えるのだろうか?

そこにどんな人が住んでいて、どんな営みが行われていたのかということを想像するから?

普段は見えない裏側、内側が表にさらされているから? どうなっているんだろうという興味を掻き立てられるから?やじうま根性みたいなもの?

しかもそれが、あとかたもなくなろうとしていて、今しか見られないから?今だけ感に動かされている?

そこに新しい何かができたとき、前はこんなときもあったなあと思い出すことがあるかもしれないから?


おそらく一番の理由は、見える部分だけが全部じゃないということを、呼び起こされるからだろう。

物も、出来事も、人も、自然も、表に見える部分は、一部でしかないということを私たちは知っているはずなのに、つい忘れてしまう。

土台があって、支えがあって、関わりがあって、防ぐものがあって、そういう大きなつながり、しくみ、のなかで私たちは生かされている。共に生きている。

作ってくれる人だけでなく、運んでくれる人、裏で支えてくれる人、後始末をしてくれる人がいて、生活のあらゆることが成り立っている。

一人の人間の中であっても、多面的にいろんな部分がある。どろどろのぐちゃぐちゃな部分もあれば、コンクリのようなカチカチのかたまりも、すぐに割れてしまうガラスのようなもろい部分もある。さらに、細胞がちゃんとそれぞれの役割で動いてくれているから、息ができて、考えることもできて、noteに投稿ができている。

そういうことを、ついつい忘れがちだ。

今は、まさにそんな普段見えない部分が、ひと、もの、こと、情報それぞれに、表にさらされている、もしくはさらされざるを得ない状況だろう。

見えないウイルスにどう対処していくのか。
これからどうなるんだろうという先が見えない不安や恐れとどうつきあうのか。
報道されない現場の本当の姿はどうなっているのか。
数々の意味が見えない手続きは今後どうなるのか。
目の前にいても見えない、近くの人の心の中はどうなっているのか。
自分でも見えない、自分の心の中はどうなっているのか。
部屋の隅にたまった埃や、ものが詰め込まれた収納の中身はいつ表に出されるのか。
見えないところで働いてくれている人たちにどれだけ暮らしが支えられているのか。
私たちが、どれだけ自然の力で生かされているのか。


本当は、見えないんじゃなくて、見ようとしていなかったのかもしれない。
今はそういう1つひとつに、ちゃんと向き合っていけるときだ。

見えない部分を見ようとする「目」と、想像力と、思いやりと、責任感を持ち続けたい。私は地球の一員だから。

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