『モモ』のベッポじいさんから学んだ2つのこと
「やらなくてはいけない」とか「やるべきだ」と思っていてもついつい先延ばしにしたり、手を出してはみたもののうんざりするほど先が長く感じられて途方にくれたり。そういうことがよくある。仕事でも、家事でも。
例えば、申請書類を提出しなければいけないとき。
そのためにはどんな書類に何を記入して、どんな書類を取り寄せてと、調べればわかる。だけどその準備する書類の数の多さ、その手間数を想像しただけでうんざりしてしまう。
例えば、「さあ、お風呂掃除をしよう」と思ったとき。
あそこもここも汚れてるから、あれをやってこれをやってと、考えるとうんざりしてやる気がしぼむ。
人生のいろんな側面で、微妙に形は変わりつつも、同じようなパターンを繰り返している。なんなら、以前は普通にできていたのに、できなくなってきた、ということもある。
そんなとき私は、『モモ』に出てくる、ベッポじいさんを思い出す。
道路掃除夫のベッポじいさんは、主人公のモモの二人の親友うちの一人。とてもじっくり考え、ゆっくり話す人だ。
例えば誰かに何かを聞かれたとき、
ベッポはじっくりと考えるのです。そしてこたえるまでもないと思うと、だまっています。でも答えがひつようなときには、どうこたえるべきか、ようく考えます。そしてときには二時間も、場合によってはまる一日考えてから、やおら返事をします。
すぐに答えが返ってこないので、聞いた相手は、自分がなにを聞いたか忘れてしまうこともある。周りの人からみると「効率が悪い」、なんなら「ちょっと頭が悪い」とさえ思われている。
でも、ベッポじいさんには信念がある。
ベッポの考えでは、世の中の不幸というものはすべて、みんながやたらとうそをつくことから生まれている、それもわざとついたうそばかりではない、せっかちすぎたり、正しくものを見きわめずにうっかり口にしたりするうそのせいなのだ、というのです。
確かにそうだな。嘘をつこうとしてではなく、反射的に浮かんだ言葉で返してしまうことはよくある。そして言いながら、もしくは言ったあとに、「本当かな? 私、そういうこと言いたかったんだっけ?」と自分でもわからなくなる。
慎重なベッポじいさんは、道路掃除の仕事でも、自分なりの信念を持って取り組んでいる。自分の信念をモモに話すシーンでは、ベッポじいさんは、自分の言葉をすごく慎重にたぐっていく。
どのくらい慎重かというと、ちょっと長くなるけどひとまとまりで。
「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。
「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげてみるんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」
ここでしばらく考えこみます。それからようやく、さきをつづけます。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
また一休みして、考え込み、それから、
「すると楽しくなってくる。これが大事なんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
そしてまたまた長い休みをとってから、
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、自分でもわからんし、息もきれてない。」
ベッポはひとりうなずいて、こうむすびます
「これがだいじなんだ。」
というように、1つひとつの言葉を、丁寧に確かめながら発していく。
私はこのシーンがとても好きだ。
どんなふうに仕事(ものごと)に取り組むか。
どんなふうに自分にとって真実の言葉を探しだすか。
その重要な2つのことを、作者のエンデはベッポじいさんにのせて、私たちに語りかけてくれている。
どんなふうに仕事(ものごと)に取り組むか
仕事を大きな塊のままとらえて、先を見て焦るというのは、昔テクニカルライターをやっていたときによく陥っていた。その度に細かく分割して、自分を落ち着けていたのだけれども、社会人大学院の修士論文を書いていたときにも、よく途方にくれていた。たぶん論文執筆に費やした時間の多くは、ただただ先を見て焦っていた時間だったと思う。そういうときに効き目があるのが上に出てきたベッポじいさんの言葉。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
このセリフを頭の中で、何度も自分に言い聞かせ、今目の前にある、自分の手が届くところだけに集中する。でも少したって、つまづくとまた遠い先を見てしまい、焦り始める。そしたらまた言い聞かせる、の繰り返し。それでやっと論文提出に辿り着いた。
歩くことも一緒だ。千里の道も一歩からとはよく言われる。
歩き遍路をしていたとき、膝の横の筋を痛めてしまい本当にどうしようもなくめげそうになったことがあった。とにかく次の一歩をということだけを頭の中で唱え、足を前に出した。一歩の積み重ねでしか、目的地にはつかないということを、身体に刻みつける体験となった。
昨年から取り組み始めたScrumとTrelloを活用した個人スクラムでも、基本的には、立ちはだかる大きな壁を、ひょいっと超えられるくらいの大きさに小さくしている。
「大きな、うんざりする」ようなタスクを「小さな、うんざりしない」程度の大きさに分解する。そして1週間、1日の中で自分が使える時間のなかに、その分解したタスクをあてはめていく。
今週やるべきこと、今日やるべきことは、毎週、毎朝時間をとって考え、全部Trelloに入れてあるから、今は目の前のことだけ見ていられる。
もし何か別のことが浮かんできたり、心配になってきても、その「浮かんで来たことについて考える」というタスクをTrelloに入れておけば、安心してそのことはいったん手放せる。この安心感は、目の前のことだけに集中するために、大きな支えになってくれている。
どんなふうに自分にとって真実の言葉を探しだすか
今年の年明けに、オープンダイアローグの3日間のワークショップに参加した。進行役の先生方が、とてもゆっくり話をしていることに、最初私は違和感を感じていた。なんなら、まどろっこしいとさえ思っていた。
だけど、ワークに取り組みながら、自分も対話のネットワークの当事者として体験を重ねていくなかで、その「ゆっくり」な姿勢が、実際に危機的状況にある人にとっては、待ってもらえるという「安心」であったり、自分の中の声を聴くための「心のゆとり」になっていることに気づいた。
支援者の側は、そういう「安心」を感じてもらえることが、何を話すか、何を聞くか以上に重要なのだ、ということがわかってきた。もう少しいえば、「その人が、その人として存在できるスペースをつくってあげる」ということ。
そのためには、まずは自分自身が、安心してゆとりを持って、自分としてそこにいなければ始まらない。ゆっくり話すということは、ベッポじいさんのように、自分の言葉を確かめながら話しているということでもあるのだろう。
支援職をしている人は、おそらく100%の人が「安心安全」が大切だと思っていると思う。だけど実際の現場では様々な制約もあり、そこまでできていなかったという方が、このときのワークショップでは結構多かった。支援の専門家であっても。
ベッポじいさんの場合は、モモがそんなスペースを作ってくれた。だから、どれだけ時間をかけてでも、自分の信念を言葉にすることができたのだろう。そういうスペースがあればこそ、言葉を手繰り寄せることができる。
ベッポじいさんのその長い長い沈黙の間、ベッポじいさんのなかでは何が起こっているのか。
おそらく、「せっかちすぎたり、正しくものを見きわめずにうっかり口にしたりするうそ」が出ないよう、「つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考え」ていたのだろう。
つまり、自分のなかで浮かんできた1つひとつの言葉の手触りというか、答えたいと思う言葉になる前の感じへのフィット感を、確かめているのだと思う。
そして口に出したあとも、自分の発した声を聴いて、「ほんとうにそれでフィットしているのか?」と、自分の奥底の感じに照らして改めて確認しているのだと思う。
今、普通の会話のときに、ベッポじいさんほどに時間をかけて話をすると、おそらくおかしな人だと思われるだろう。だから自分にとって本当の言葉を見つけたくても、あきらめてしまう人も多いのではないだろうか。
これは以前書いた、記事に通じている部分だ。
本当に言いたいことを言葉にしたいのなら、まずは自分が自分を待ってあげなくてはいけない。
時間がかかっても、うそをつかないことを選ぶのなら、自分のなかの「感じ」にフィットする言葉を丁寧に探しつづけることだ。
そういうことを身体を通して知っていればこそ、他の人の言葉を、モモのようにずっと待つことができるのではないか。
noteを書いている理由も、まさにここにある。
自分が書いた記事を、時間が経って読み直したとき、フィットするかどうか自分で確認をして、自分が本当に言いたかったことは何?と、自分に聞くことができる。
そうしたらそれを、フィットするように書き直す。
1日でできることは限られているけれど、それを毎日続けたらどうだろうか。どれだけ自分の奥底にフィットした言葉を生むことができ、溜めていけるだろうか。どれだけ自分にとっての真実と思える言葉を手繰り寄せることができるだろうか。
そんなことを楽しみに、私はベッポじいさんの後に続いていこうと思う。