おもしろがる力を持っていたい。サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を読んで
昨日、図書館で予約していた吉行淳之介全集の取り置き期限だったので、久しぶりに図書館へ行った。どうせなら他の本も借りようと、買おうかどうしようか迷っていた本を何冊か借りてきた。ベケットの『ゴドーを待ちながら』、モリエールの『人間ぎらい』、小島信夫の『寓話』。
帰宅してすぐ、『ゴドーを待ちながら』を読んだ。不条理演劇の代表作として、世界中の演劇界に大きな影響を与えたと言われる有名な作品だ。以前からいくつかの本で言及されていたので気になっていたが、なかなか手にとれなかったのは戯曲だからだ。戯曲はどうも読みなれていない。
ざっくりとしたあらずじとしては、野原に立つ一本の木のそばで、エストラゴンとウラジミールという2人の浮浪者が、ゴドーという人物(?)をひたすら待ち続けている。そこでやりとりされるのは、意味があるとは思えないとりとめのない会話だ。途中、2人組と少年が登場するが、それ以外には何も起こらない。ゴドーが何者かは明かされないし、最期までゴドーは現れない。ただただ2人が喋りながらゴドーを待ち続けるという劇だ。
読み終わっての率直な感想は、よくわからない、だ。読んだ、という達成感というか、読了感のようなものもない。
松岡正剛さんの千夜千冊の記事を読むと、この作品の「何もおこらない感」が饒舌に書かれている。
こんな芝居はかつてなかったはずだ。ともかく二人の会話がえんえん続くだけで、何もおこらない。
そのうち舞台は、いったい何かがおこるとは何がおこることなのかを問うているような仕打ちを見せる。
残り滓、持ちこたえられない中心、慰めにもならない断片。『ゴドー』にあるのはこれだけだ。では『ゴドー』にないものは何かと言ったら、何でもある。だから『ゴドー』を見ることは、ときにすべての想像力を動員させることになる。
ないない尽くし――。それが『ゴドー』である。舞台に登場しないゴドーが神であろうと、退屈であろうと、風来であろうと、不条理であろうと、豚肉であろうと、定義づけであろうと、それを証かすものは何もない。あるのは山高帽と一本の柳だけなのだ。
続けてTEDの動画を見てみる。
ベケットは 日常生活と同様に 舞台上の世界も 必ずしも 意味が通らないと教えてくれます。現実と幻想や 見慣れたものと見慣れないものを 探ったっていいのです よくできたお話は 確かに魅力的ですが 素晴らしい演劇というものは 観る者を考えさせ 待たせるものなのです
わかるような、わからないような。なにがわからないか、よくわからない。ただ、自分が、何かしらの意味や展開を求める傾向があるということはわかった。「つまりこういうことね」と思いたいのだ。
なので、さらに別のものにも手を出す。『柄本家のゴドー』というドキュメンタリー映画をレンタルで観た。
俳優の柄本佑さんと柄本時生さん兄弟が、ウラジミールとエストラゴンを演じる舞台の演出を、父の柄本明さんが手がけた。そのプロセスを追ったドキュメンタリー映画だ。柄本明さんはかつて舞台でエストラゴンを演じたことがあるという。
柄本明さんも、ご自身が演劇を始めた当時に『ゴドーを待ちながら』を読んだときは全然わからなかったと言っていた。そして自身がエストラゴンを演じることになったとき、あらためて読んでみて「わからないことがわかった」という。「わからないんだけれど、泣けてきた」と。その言葉で、『ゴドーを待ちながら』は「わかる作品」ではないのだなということは、私にもわかった。
柄本さんは稽古の中で、2人の役者である息子たちに演技のアドバイスをしていく。だが、多くは語らず、やって見せる。シンプルな言葉を繰り返す。「フィットしないなら、フィットするまで何遍も何遍も言うんだよ」、「具体、具体、具体、具体なんだよ」。おそらく身体的なものは、言葉では伝わらないのだろう。柄本兄弟もすでに力のある役者さんだろうけれど、そこにさらに偉大な役者としての父の技というか、演技への向き合い方そのものが注がれていくやりとりが、非常に見ごたえがあった。
以前、東京乾電池の舞台を観に行ったときの舞台挨拶で、柄本明さんがとつとつと語られていたことを思い出す。「演劇は誰でもできるんですよ。書いてあることを言うだけだから。誰でもできるんだけど、その書いてあることを言うことが難しい。自分が書いたわけじゃないし、それは嘘だから。嘘なんだけど、嘘じゃなく言わないといけないから」と。
さて、『ゴドーを待ちながら』に戻る。
ここで「よくわからないままでいいや」と終わりにしてもいいが、自分が今の段階で『ゴドー』をどうとらえていて、どんな部分にもやもやっとしているか、をもうちょっと考えてみてもいいかなと思い、もう一回本を読んでみた。
2回目ということと、いろいろインプットした後なので、セリフが少し入ってくるようになる。すると「何も起こらない」わけではないこともわかってくる。劇中では、ずっと変化が起こり続けている。それは言い換えると、そこに人がいる限り、何も起こらないことはないということだ。呼吸をする。話をする。靴を脱ぐ。帽子を脱ぐ。そういう些細なことも含めれば、変化の連続だ。
特に大きな変化だと感じたのは、舞台に象徴的にある、前日には枯れ木だったはずの木に、葉が出ていたところだ。
さらにポゾー(旧訳ではポッツォ)のセリフも印象的だ。
くそったれな時間の話でおれをいじめるのは、いい加減にしてくれ!いつのことだ!とか、いつからだ!とか。ある日、それじゃ足りないのか?いつもと同じ、ある日じゃ。ある日、あいつは口がきけなくなった。ある日、わたしは目が見えなくなった。ある日、わたしたちは耳も聞こえなくなるだろう。ある日、わたしたちは生まれた。ある日、死ぬ。いつもと同じ一日、同じ瞬間。それじゃ足りないのか?女たちは墓穴にまたがってこどもを生む。日の光が束の間瞬いて、そしてまた夜が来る。
新たに出た葉が象徴しているものや、ポゾーの印象的なセリフの解釈はもうちょっと先にしたいので、何を言わんとしているかということには触れないけれど、作品全体を通して「時間」をどうとらえるか?ということが気になった。それはこの作品のもともとのタイトルが「待つ」ということともつながっているだろう。
今回読んだ版の訳者の解説では、この作品が書かれた時の背景が説明されている。
そもそも『ゴドー』は、第二次世界大戦という、人類にとって未曽有の大量殺戮が行われた直後に書かれた作品である。(中略)戦争という、人間の尊厳を踏みにじり命を収奪する最大の不条理を目の当たりにしたベケットの鋭敏な感性が、因果律に支えられた近代自然主義演劇の限界を超克する新しい演劇を生み出したのだ。
この不条理の感覚は、今の私たちにも訴えかけてくるものがある。90年代の地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災、2000年代に入っての同時多発テロや無差別殺傷事件、そして東日本大震災と、私たちは数々の不条理な出来事を目撃してきた。
「不条理」という言葉が原因と結果が結びつかない状態を指すとすれば、理不尽な死はその最たるものだ。
さらに、景気低迷や超高齢化社会への先の見えない不安はずっと続いており、そこに新型ウイルス禍。もはや何を待てばいいかわからない、絶望的な状況とも言えなくもない。
だからこそ、この不条理劇は私たちの心に響くのではないか、と訳者は言う。
しかし、置かれた状況がどんなに絶望的に見えても、ベケットの劇には常に笑いがあることも忘れてはならない。(中略)もちろんそれは屈託のない笑いではない。ここに見いだされるのは、笑えないぎりぎりの状況を笑おうとする、しぶとい生命力だ。『ゴドー』の二人は死のうとするが死ぬことはなく、今日もバカバカしい会話を繰り広げながらなにをやってもダメな状況を生きていく。
こんな時期だからこそ、ここに、すごく共感する。
先日、「笑い」をテーマに哲学対話を開催した。その際に「自分で能動的に見出していく笑い」というものもあるんじゃないか、ということを考えた。受けとる「笑い」ではなく、自分からおもしろがろうとすることで、何かしらの力が湧いてくるのではないかと。
「おもしろがる」というのは、別の言葉でいうと、固定した目で見ないということだったり、受け取り方がたくさんあることを知っているということだったり、保留していられるということだったり、そういうことだ。今のところフィットする言葉には出会えていないけど、そんな風に「おもしろがる」ことと、「生きる」ことは私の中でとても強くつながっている。
今日は(も)断片の寄せ集めみたいになっているが、将来への種まきのつもりで書いている。あえてまとめや「つまりこういうこと」という意味づけをしない。ベケットの他の作品を読んでみたり、他の不条理演劇を読んだり観たりすることで、今日の種は芽を出し育っていく、かもしれない。
最近は、書くことから読むことに、少し軸足を移している。読むと言っても、受動的に読むのではなく、能動的に読んでいけるようにという読みを自分なりに探求している。「能動的に読む」というのがどういうことか、まだちょっとぼわーんとしているのだけれど、あれこれあれこれ、いろいろ手を出しているところで。
1か月くらいすると、そんなあれこれが、何かしらの「問い」なり「気づき」なり、次の行動への「道しるべ」になったりするんではないかと思っているので、そうなったらまたそのクネクネ道のプロセスをどこかで書いてみたい。
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