「書く」をめぐるインタビュー⑩~「考えをまとめたら伝えたいし、書いたら届けたい」~
「書く」をめぐるインタビューセッションを実施した。お話を聞かせてくれたのは、キャリアコンサルタントの柴田朋子さん。独立後に始めたブログを1日も休まず3年間毎日投稿し続け、多くのファンを集めた柴田さん。その柴田さんの「書く」について、ぜひお話を聴かせてほしいとお願いをして、今回のセッションが実現した。
インタビューを終えて
柴田さんにはこれまで何度もセミナーの講師をお願いしたり、学びの場でご一緒したりと、「お話」をする機会は何度もあった。柴田さんが書かれた文章も相当読んできた。だが、その「書く」の背景をお聴きするのは初めてだったので、非常に興味深い時間になった。
柴田さんのお話を聴いていて思ったのは、話すにしても書くにしても、思いつきで人を惹きつけるものが出てくるわけではなく、その前にしっかりと「考える」というプロセスを経ていることが必要だということ。さらに、その「考える」プロセスにおいて、書くことは手段になる。
そうすると、「書く」には、考えるために書く、伝えるために書く、など目的に応じた「書く」があるのだなあということを改めて思った。こうして文字にすると当たり前のように思えるけれど、これまであまり厳密に分けずにただ「書く」とだけ、このセッションでは表現してきたので、これからもう少し分けて考えたほうがいいのかもしれない、と思っている。
セッション内容のリライト
ご本人の許可を得て、セッションで伺ったお話のメモをリライトしたものを掲載する。このリライトは「記事」ではなく、ご本人に「セッションを振り返ってもらうためのもの」なので、話したままに近い内容になっている。
*******
書くということと話すということが、私のなかでは近いことで、時間がかかるのは何を書くかを決めるところ。書くことが浮かばないときはお風呂に入ることが多いんだけど、そうやって頭のなかで書くことを考えていてテーマが浮かんだら、キーボードに向かって一気に書くという感じ。一気に書いてからちょっと推敲して、あんまり直さずそのまま投稿や公開をする。わりとそういうところがある。
修士論文はできがよかったとは言えないけど、考察とか結論の部分はすごい書ける。考えを書くことは書ける。それが適切か、正しいかは別として、「これは言いたい」は書ける。だけど、そこに至る論文的なお作法が甘くて手が止まることはある。
大学の卒論は、文学部だったからかどうかわからないけど、そんなに厳密な研究や調査とかではなかったので、材料を集めたら2日くらいで書けたという感じ。「こういうことを、こういう流れで言おう」と決まったら、わりと止まらず書ける。卒論のテーマが恋愛だったというのもあるかもしれないけど。
ブログもnoteも、話すこともそんな風に結構似ている。以前、小学生のプレゼン大会のようなもので、子どもたちの発表のあと15分で講評をするというコメンテーターの役目をやったことがあって、子どもたちだけでなく、聴いている大人に向けてもメッセージを伝えようと、何を言おうか考えながら発表を聴いてメモして、それで講評をした。その発表会の記録を作ったお役所の人に、「いつも話し言葉は編集しないといけないんだけど、柴田さんの講評はそのままで全部使えた」と言われたことがある。だから、書くときも話すときも、割とまとまったら結構出てくるかなあ。
それは反面悪いこともあって、一気に書いて読み返してから直そうと思って読んでみると、「全部だめじゃん」ってなることがよくある。「よし書ける」と思って書くのに、読み直してみたら、「この人きらい、えらそう」とか、「読み手の人はこんな話聴きたいかなあ?」とか、書いた自分の熱量と違う自分で見てみると、微修正とか修正ができなくて、結局全部消すということがままある。そうするともう頭がその内容になっているから、新しいネタが書けない。
ここ1年くらいは自分のなかで、書きづらいというか、ちょっと考えちゃうことがあるかな。文章としておかしいとか、論旨が不明とかではないんだけど、テーマと主張が、なんかこう、「求められてる感」がなくて書かないことがある。自分で勝手に決めてるんだけどね。
「求められてる感」が欲しいんだなって思うね。書きたいことを書くというよりは、必要だと思うことを書いているので、純粋に書きたいことを自己表現として書いているかというと(みなさんにはそう見えるんだろうけど)、そうでもないなあというのはある。
自分が文章を書く目的が、ブログの延長線上でビジネスモードに固定化されているから、読んでいるみなさんに関係ないよなと思っちゃうと、素直に書けない。ブログからnoteに変えたときに、つれづれっぽいことを書こうと思ったはずなんだけど。
アメブロってランキングが出る。ランキングを見ちゃうと下がったなと気になるし、更新しないとページビューが落ちるから更新しようとかもあった。noteではそれが少し解放されて、スキがつくかどうかはあるけど、でもあまり外的なものに左右されなくなったのは気が楽になった。
でも単純に書きたいことを書いてはいない。Facebookは、昔はほんとに書きたいことを書いていたような気がするし、結構言いたいことや同僚にしゃべっているようなことを書いてはいるけれど、それにしたって意識して制御して書いている。コロナ禍になってからTwitterの方も気軽につぶやいているんだけど、結局同じような使い方をしているので気軽なメディアではなくなってきて。
書くときにいつも目的とか、読み手とかを考えずにはいられない性癖なんだよね。ちょっとしたプチ成功体験とかもあるんだろうなあと思うし。
人がなんでそんな読んでくれるのかよくわからないこともある。たとえば誕生日なので自分の振り返りのストーリーを書いて、それを途中でやめたということをfacebookに書いたときに、「めっちゃ読みたいです」と言ってくれる人がいて。
絶対読みたいと思わないだろうなと私は思ってしまう。25歳くらいまでを書いてから、「何書いてるの?」と冷静になって消した。そんな風に脳内で書きながら対話している。いや、書きながらじゃなくて、書いたあと読みながら対話して、みたいな感じかな。
ものを読むのは黙読で速く読めるんだけど、何書こうかなと考えているときは頭のなかで音読している感じがあって、仮タイトルみたいなのを考えている。例えば「上司が部下の話を聴いてないくせに、1on1やろうと言っている」みたいなことを、頭のなかで音読してゴロがいいか、流れがいいかとかを考えている。「話を聴かないのに、話をしたがる上司ってなに?」と、お風呂で口に出して言っている。それを文字にしてみて、おさまりが悪いかなと思ったら、ちょっと直すという感じで書いている。
小学校のときから作文は好きで、お友達と妄想を書き合う交換日記を書いていた。小6か中1か忘れてしまったけど、都会から転校してきたおしゃまなお嬢さんがいて、その子のお父さんは大きな銀行の銀行員で、2年に1回転校するような子だったんだけど。その子がお気に入りの言葉を集めて書いたノートを見せてくれて。そこに書いてある言葉を使って、ポエムを書き合うみたいなことを、その子が転校するまでやってたなあ。
言葉とか文章とかはスキだった。ただ、それにあんまりふれることなく社会人をしていたので、文章を書くというのは、ブログというシステムができたおかげ。書き出すと結構しつこいかもしれない。
独立してアメブロを書く前に、匿名で楽天のブログをやっていて、そこでは娘が高校留学に行っている顛末記を書いていた。たぶん娘がおもしろいことを言ってくるから書いていたんだと思うけど、その次はmixiでせまい10人くらいのマイミクの中で書いていて、あとは教育委員会のときに、仕事としてプロジェクトの報告するブログを書いていて、独立してアメブロ、からの今ここという感じ。
仕事が忙しかった20代~30代にも書きたい気持ちがなかったんだろうか?と考えてみると、ひとつ思い出したのは、リクルートの頃にすごく刺激的だった友達がいたこと。同い年のバイトの子で、独自の世界観を持っていて、ひまさえあればなんか作っている。イラストもきれいに描くし、個人的な趣味で、箱や紙でコラージュ風のプチアートみたいなものを作ったり。さらにおもしろい文章を書く子で、勝手に映画評とかを書いて新聞にして知り合いに配ったり。
リクルートをやめたあとにも連絡を取り合っていて、その子と2人で時事問題とか、映画とかについて「なんなんだろう」ということをよくしゃべっていて、くそまじめなテーマをえんえんと雑談している時間が結構好きで、こういうことをもっと話したいよね、こういうこと話せる場所があるっていいよねと言っていた。そしたら「だったらブログとか書けばいいのに」って言われて、ブログで言いたいことを書くみたいなことができるのかな、みたいに思っただけでやらなかったけど。
まじめな雑談が好きなの、すごく。私はこう思う、私はそうは思わないっていうことをしゃべるのが好きなんだけど、まじめな雑談は相手を選ぶ。主義主張はもちろん違ってもいいんだけど、キャッチボールなので相手のボールの取り方とか投げ方に左右されて、それが合わないと、あんまり言わなくていいか、となってしまう。その頃はまだキャリアカウンセラーじゃないのでそんなに聴けなかったし。よいおしゃべり相手って、いそうでいない。だから、そういう「言いたい感」がずっとあったんだなと思う。
―― 言葉になる前の、もやもやっとあるものを出したいという欲求はないですか?
自分の中で、出したいものを出すことと、それを読み手に読んでもらうことは区切れていない。だから、書いたら届けたい。日記を書いていた時代もあったけど、読み手をまったく考えずに書いているので、すごい気持ち悪い。なんか自己陶酔にも程があるし、気持ちわるって思って、まかり間違って残ってしまったら困ると思って捨てた。
とにかく書いたら届けるというか、企画書でもメールでもブログでも、自分が書いたことだけで満足するってことはあまりないかもしれない。だから、無人島では暮せないよね。1人でいるのは好きだし、脳内で会話したりしているんだけど。考えをまとめたら伝えたくなるのかな。
私的な感情、おいしいとかうれしいとかさみしいとかは、反応をもらいたいとかはあんまり思わない。かまってちゃん的なパッケージを見ると、コメントがいっぱいつくだろうな、よかったね、大変だねとは思うけど、そういう感情はあまり共有されたくないし、私自身はしない。見え見えなボールを投げて打ち返してもらおうというのははずかしい。
だから、自分がすごい大変だってなっている最中には書かない。終わってネタに昇華できたら書く。あと、怒りとか、どうなってんのみたいなことも書くことはあるけど、それは自分の問題としてだけではなく、他の人にもそういうことあるよね、というときに書く。クレームのような、接客がひどかったということを書くとしても、顧客視点で書けるなと思ったら書く。それが届いた人に、何かどこかで小石くらい投げられたらいいなと思って。
―― 言葉になる前のものが言葉になりにくいというストレスはないですか?
自分で自問自答はする。ガラスにホワイトボードシートを張って、ブレストしてる。「これいるの?」みたいなのを書いて、思考が繰り広げられる。「やりたいのはなんだっけ?」とか。そういうのは1人でやるか、同じような課題を持っていて慣れている人とリアルでやる。書くかしゃべるかしないと整理されないので、ただ考えているということはない。「なんか最近こういうこと思ってるんだよねー」みたいに話をして、やりとりのなかで表現するか、1人で書くけれど、その試行錯誤のプロセスは表には出さないかなあ。
―― 書いた文章にダメ出しをする人は誰なんですかね?
書き終わって投稿ボタンを押す手前で編集長が出てきますね。「これほんとにおもしろい?」って言っている。眠くてこれで勘弁してということはあるけど、厳密に読みなおして修正したときと、ねむいねむいで投稿したときに、そんなに読んでくれる人の反応に差はないから、もう完全に自己満足だけど。
昔のブログをネタ探しに読み返すと、乱暴なことを書いていたなと思う。同じところには戻れない。よくも悪くも昔には戻れないと思う。
読み手のことはほんとにわかんなくて、自己基準でいうと、文章は穏当でわかりにくくなったと思うんだけど、「明確にはっきり書かれている」と言われると、「どこが?」と思う。話すことも一緒で、当社比ではおだやかに、穏当になっているつもりなんだけど、「あいかわらずズバッと言っている」と言われる。
あらためて考えると、自分のなかでこの10年くらいですごく変にこなれてきたというか、効果とか知恵とか、一周、一回転して、「結局何書けばいいんだっけ?」って考えちゃう。「本当は何を書きたいんだろう?」と思ったり。
身分的にも社会的にもどこかに所属しているわけではなくもう自由なんだから、誹謗中傷するんじゃなければ、もうちょっと自由に表現してもいいのになとは思う。でも、期待にこたえたくなっちゃう。アメブロの文章のこういうところが好きですかと言われると、「書くかー!」ってなっちゃう。
仕事に動員するブログはボームページのなかにあるんだけど、結局いっしょくたになっちゃっていて、マネジメントとかキャリアのことはホームページで、noteには楽しく書こうと思ったんだけど、器用に使い分けられないというのは結構思う。なんかこう、「求められるかな、お役にたつかな、課題解決になるかな」ということばかり考えて書いているので、「私が今書きたいことってあるのかな?」というのは思う。
さっきのリクルート時代の友達がブログを書いていて、映画のこととか、美術展行ってみたとか、個人的な興味でマニアックな調べ事をして書いたりとか、おもしろくて結構好きで、たまにふと思い出して見に行くと、着眼点がおもしろいなあと思う。でも、そういうのを見ちゃうともうダメ。素の自分で何か表現することのハードルが上がり過ぎてしまう。
noteも、始めたころにいろんな人のnoteを見に行くと、おもしろい文章を書く人はいっぱいいて、こっちもあっちも、ヒューマン的にも学術的にも、そこここに書き手がちゃんといる。すでにこんなにおもしろいものがあるのに、もう書かなくていいやというのが最近の状態。
これは悪い癖で、仕事でもそうだけど、相対化というか、自分の出来ていることでどのポジションにいるかとか、他にどんな人がいるのかとか、ヘンな相場感を見る癖があって、結構低いところに着地しようとする。
あんなに言い切った文章を書いておいて何をいうかって感じなんだけど。例えば、友達としゃべっていて、「このあいだ研修に行ってさ、聴いている人が講師の話をめっちゃよろこんでいるのに、あんなの何がいいんだろう」とかいろんな場所に聴きに行ってはそういうことを言っていたときに、
友達から「人を自分より上に置いて、さらに自分を置いている位置が間違っているのに、それを見に行って腹を立てているだけなんじゃない。いいかげん、未熟者ですというしぐさはやめたら」ということを言われた。
仰ぎ見ては打ちのめされて、このくらいのところでやめようみたいなことはある。チャレンジングなことができていないかなあ。
もうちょっと違うテーマを書く日がくるのかなあ。まあでも、書くことはやめないだろうなあ。フリーランスだから、「ねえねえ」って隣の席に話しかけて思考をまとめるみたいなことができないから。そういう話をふっかけるのが結構好きで、リクルートはそういうのがやりやすかった。
なので、話しかけるかわりにSNSに書いたり、自分なりにまとまったなということをブログの記事にしたり、人の書く文章を読んで「なんでわたしはこう思わないんだろう」と考えて、考えたら書きたくなるので書いたり。たとえば私が学者で、学会発表とかの場を持っていたら、そっちをやっているのかもしれないけど、大学院に行ってみて研究者には向いていないのはわかったので。
―― 仰ぎ見ては打ちのめされて、このくらいのところでやめようというのは?
すごくおいしいパスタやさんがあったら、もうパスタは作らなくていいかって思う感じ。この人のこのパスタで満足したからもういいやと勝手に決め付ける。でも、じっと見てて、トマト味がないし、トマト味は私のほうが上手につくれるかもと思うときは単発ではつくるかも。
作家さんみたいに表現しないと死んじゃうみたいな感じとか、誰もふりむかなくても自分はこの謎を言い続けたいんだというのはない。ただ、生きていると言いたいことはいつもあって、「なんでそんな風なんだろう、どうしてこうならないんだろう」ということを、ブログを始めた頃はそのまま書いていた気がする。疑問とかおかしいとか、私ならこう思うとか、わりと正面きって書いていた気がする。
そうやって素材ごと、りんごをむいてそのまま出していますという感じで書いていたこともあったけど、ある時期から、かきと、みかんと、なしとを集めて、いっかいジュースにしてからダメかどうか判断しようという感じのときもあって、でもそれはうまくいかない。いろんな見方があるよねという感じがちょっとダメ。
いろいろ学んだりすると、視点とか考える材料が増えすぎちゃって、「こうも言えるよね。なんとか理論ではこういう言い方もあるよね」と考え過ぎちゃう。知れば知るほど口が重くなる。
もう少しコアなところの話を、その課題に届くように丸ごと書きたいと思うんだけど、ちょっとテクニカルに書けるようになっちゃうと、わかるようなわからないような書き方になっちゃうということはある。
いろんな読解力の人がいて、これじゃ伝わらないよなあということはリアクションでわかるし、「そんなふうに読んだか」となることもある。直球で書いたほうがウケるんだけど、そういう脊髄反射みたいな反応がほしいわけじゃないんだよねとも思う。
文章ってだれかに添削してもらっているわけじゃないから、上手くなっているかどうかすらわからない。慣れてはいるけど、それが上手くなったと言えるのか。上手いの基準も不明瞭で、上手いと言われる人の、読みにくい文章もあるから。世の中わかりやすさを求めているので、せめて誤解がないようにとは思っている。ただ、「ここまで言いたい」と欲張ると、だいたい伝わらない。こんな浅い話でいいのというほうが、みなさまにヒットする。でも、ヒットを追いかけると、自分の思考が劣化する。
―― 書きなれていない人に向けて何か言うとしたら?
書いてみるといいなと思う。ふわふわしたよくわからない感情とか怒りとか、書こうとするとちょっと客観視しないといけないので、「あのとき上司がこうやったから頭にきて、私はこうやった」って書いたものを見ると、そうやってやったから頭にきたんだっけ?と考えることができる。
自問自答を頭のなかだけでしているとぐるぐるしちゃうけど、書いたものを目でみると、客観視できる。でも、書いてみてと言うと、書けないと言われる。書こうとすると、その一端くらいは見えるかもよということを、混乱気質の人にはよくいうようにしてる。
―― 読んでないと書けないし、書いていないと読めないというのがありませんか?
読まない人って、語彙が入ってないというのは本当に思う。表現できなくて大変だなあと。まず、自分のなかに入っている言葉が少ないってわかることが大事で、書けないってことは言えないってことで、言えないってことは人に自分の気持ちを伝えられないし、考えられないということだから。たんに「むかつくー」と言っているだけじゃなにも表現できないし届かないから。
最近研修で、上司が部下とのキャリア支援面談をする準備をすることがあって、部下が望む仕事のやりかたと会社がやってほしいことにギャップがあって、それをうまく結びつけてアサインすることが大事なので、部下にやらせたい仕事が、部下にとってどういいことがあるか意味づけを考えてくださいと書いてもらったりする。それで書こうとすると、やってもらいたい仕事もぼんやりと思っているので書けないし、何より部下が思っていることが書けない。自分が部下のことを何も聴いていないことがわかったという人がいた。
それでも、1回仮のものを作ってみましょう、面談のシナリオを会話形式でつくってみましょうって言って、15分くらいで書いてもらって、お隣の人と読み合うということをすると、みごとに上司欄の方にしか文章がなくて、部下には「ええ」とか「はい」とか、ひどいとそれすらなくて。それでもみなさん、書いているときは一生懸命書いていて気づかない。書くことで、自分のありかたが見えておもしろいなあというのが、この最近の体験で思ったこと。思っている以上に出ちゃうね。
―― 自分の文章を読み返していやだと思うときはどんなとき?
教えたがっている感じ。どうしてもそういう癖があって、自分がずっと年長者のポジションにいたというせいもあって、職場のアルバイトの子の漢字の間違いを指摘したりとか、プチ健康情報を伝えたりとか、そういう癖があって、聞かれるとえらそうに答えるという時代があった。ここ10年くらいはそういう自分を反省して抑えているんだけど。
自分でもまわりを見ていて教えたがりの癖が匂う人は好きじゃないと思いながら、自分が書いてきらいだなと思う日のnoteは、そういう人と一緒じゃんと思う。なんか教えたがっていると思うといやになる。まあだいたい書いているのがアドバイスちっくなブログなので気をつけないとすぐ高みに上ってしまう。
ちょっとつぶやいただけなのに、求めていないのに、教えにかかる人がきらい。自分もやりがちだから、そこは敏感にちょっと匂うなと思ったら消している。
自分語りがいやなのは、完全に陶酔感って思うから。自分史を語るのは、がんで余命いくばくもなくなってからだろうと思っている。もうちょっと笑っていただけるように書くのはありかな。この痛い失敗を乗り越えて今に至るんです、みたいな。
*******
いただいた感想
今回、ライティングの時間でこんな感想を書いてもらっている。
この考察的な(笑)ふりかえりのライティングをしていて、これがまた良い時間だなと思う。改めてやったことの意味や自分の発言したことの真意を問い返しているような時間になっている。よくできている。こういうプロセスが好奇心をくすぐられてこの上なく面白い。人間関係トレーニングのように、なにかの場でやれたらいいのにね、ってすぐ頭がそっちにいってしまうけど、言語化するのが得意じゃない人が多いので、そのあたりみどりさんのこれまでの経験と検証や気づきをぜひ共有してほしいなあ。
→はい、ぜひとも検証して、気づきを報告したいと思います!
現状、柴田さんはnoteでも自由に書くを楽しんでいらっしゃるので、ぜひご覧いただきたい。働く人がぶつかる「キャリアあるある」や、「職場の人間関係あるある」など、ツボを押されるような感じで毎回語ってくれている。
あらためて「書く」をめぐるインタビューについて思うこと
最後に話していたときの、「ボールを受ける人がいないと投げられないよね」という柴田さんの言葉が印象に残っている。
たしかに、この人に向かって投げるんだということがわかっていないと、どこにどうやって投げたらいいのか、皆目見当もつかないということになりかねない。
一方で、ある種の文章においては、相手がいると言いたいことが言えないということもあるのではないか、という疑問もむくむくと湧いてきた。
自分が毎日書いている言葉、文章は、どこに向かって、誰に向かって放たれているのだろう? たまたま目についた人が読んでくれればそれでいいのか?
「伝えたい」、「届けたい」という意識があることとないことの違いはあるのか? あるとしたらそれはどんなものか?
伝える相手がいないまま書くことは、1人よがりや自己満足なのか?
「話す」ことと、「書く」ことは、アウトプットの形としてどのように似ていてどのように違うのか?
自分の中にある何かしらが言葉をまとって、もしくは言葉の器に入れられて外に出てくる前に、人の内側ではどんなことが起こっているのか?
そういうことについて、改めて考えてみたいと思った。
*******
「書く」をめぐるインタビューセッションのモニター募集は締め切りました。来年1月から、新料金で再開予定です。
年内に体験したいという方がもしいらっしゃいましたら(セッションの詳細はこちら)、スケジュールがあえば実施可能ですので、こちらのお問い合わせフォームよりお知らせください。
サポートいただけたら跳ねて喜びます!そしてその分は、喜びの連鎖が続くように他のクリエイターのサポートに使わせていただきます!