哲学対話「あきらめる」の開催レポート
毎月第4土曜日にオンライン哲学対話を実施しています。2月は変則で、2月23日(金・祝)に実施しました。その際の様子をレポートします。
哲学対話とは「普段はあらためて考えない疑問」、「すぐには答えが見つからなそうな疑問」について、みんなで語りあって思考を深めていく場です。65回目となる今回のテーマは「あきらめる」で、参加者は14名でした。
※以下、当日出た意見を、個人が特定されない範囲で紹介します。個人の具体的な体験などは省略した他、進行役の解釈・編集が入っていますのでご了承ください。またメモを見返して意味がよくわからない部分は省略しています。
チェックイン
音声確認の意味も含め、①ニックネーム、②今の気分・体調を一人ずつ話していただきました。
フリートーク
最初に20分程、「あきらめる」というテーマから思い出す体験や、思い浮かぶことを自由にお話していただきました。
・あきらめるという表現を使う時点で、すでにそこに未練があるのではないか。
・哲学対話の場で、期待しているような内容が話されなかったときにあきらめたことがある。 ⇒自分の基準を人に求めるのは違うなと思った
・スーパーでアジを買ったが、小さかったのでもともと食べようと思っていた「たたき」はあきらめて、「塩焼き」にして食べることにした。これはあきらめたことになるのか?
・あきらめるとは、何らかの欲求・執着・望みがあり、それを達成できないときにそれらをふりきること。その際になんらかの抵抗感を感じるもの。あきらめたくない気持ちがあるから、自分の執着との戦いとなる。あきらめることはストレスがかかる。
・どんなに頑張ってもできなくてしかたがなくてあきらめようと思っても、あきらめるなと周りから期待されていると、あきらめることはダメなことなんじゃないかと思う。
・自分の執着の中身が、本当に自分が望んでいることなのか、まわりからの期待を取り込んで潜在化させたものなのかわからなくなる。自分の気持ちからやりたいことをあきらめたときは葛藤があるけれど、周りからの要請でやっていたことをあきらめることは、逆に清々しさや自由を感じるかもしれない。また、どうしてもあきらめざるを得ないときと、自分から降りるときで、次の展開も変わってくるかもしれない。
・あきらめるということはネガティブなことという印象があったが、話を聞いていて新しい選択肢を自分にゆるすこと、新しい考え方を受け入れることなのだなと思った。
問い出し&問い決め
フリートークの話をふまえて、後半みんなで考えたい問いを出していただきました。それぞれの問いの背景を聴いたあと、似ているものは一緒にする時間を取り、最終的に投票で決めました。
選ばれたのは「諦めないことは美徳なのか」という問い。ここで短い休憩をはさみました。
問いについての対話
まずは問いを出してくれた方にもう一度、なぜその問いについて考えたいと思ったか背景を聴くところからスタートしました。
・あきらめうようとすると周りからの批判を受けたり、あきらめられないことで苦しくなったりする。あきらめないことがほめられること、すばらしいこととされているが、本当にそうなんだろうか?と思う。
・あきらめないことがよいとされるのは、本人がどうかというよりもそれが社会的によいと評価されるから
・子どもの教育に関わっているなかで、たとえば、まだ10代で人生をあきらめてしまっているような子には、あきらめるのは間違っているよと教えるし、全方位にがんばって、人の期待に全部応えようとするような子には、大切なことに集中して、それ以外は捨てていいんじゃないかなと伝える。
・あきらめないことがすべてよいことではない。例えば失恋をして、相手のことをあきらめきれなくてストーカーになってしまったりするのは美徳ではない。ただし、自分にとって本当に大切なことと、単なる執着になっているものとの境界はどうやって切り分けられるのか?
・そもそもあきらめようかどうしようかという考えがよぎる時点で、自分にとって本当に大切なことではないんじゃないか。自分が本当に望んでいることは、あきらめるとか言っている場合ではないし、自分でチョイスできる余地がないんじゃないか。
・我々は全部を行うことができない以上、選択をしなくてはいけないのだから、そこにはすべからくあきらめるが発生するのではないか。ただ、あきらめようと思ってもあきらめきれないという心理的な葛藤が伴う。
・選択をする際の基準となるのは、自分がやりたいかどうか。あきらめるとしたら、その自分のやりたい気持ちも終えなくてはいけない。
ここで進行役からみなさんに問いかけです。もう一度問いを眺め直してみて、少し言い換えてみました。
◎あきらめた方がといいときと、あきらめない方がいいときとがあるということが見えてきたなかで、そもそもの問いに戻って、私たちがあきらめないことを美徳と思うときはどんなときでしょうか?一般的にではなく、ご自身が思うときって、どんなものがありますか?
・集団行動において、一人があきらめることで他の人がゴールすることもダメにしてしまうようなとき
・自分にとっては探究するということがあきらめないこと。人それぞれ探究のテーマは違っていいと思う。自分は受験のサポートをしているので、そのための探究は楽しいし、幸せである。また若い世代の人がそういう自分のテーマを見つけるのを手助けするのも楽しみ。
・時代の価値観として、1つのことをやり続けることがよいこと、長く続けることがよいことというのは確かにあった。ただ、それは時代とともに変わる。他の人からあきらめない方がいいと言われるとき、その人がどれだけ自分のことをわかって言ってくれているかでこちらの受け取り方も変わる。自分のなかであきらめないことは、自分がどう生きていきたいかを感じるとか判断するセンサーを磨き続けること。
・自分にとってあきらめたくないこと、例えば幸福への探求などは、やめるという選択肢がないので、そのことにあきらめるという言葉を使うことには違和感がある。
・あきらめないことが美徳というのは、古い根性論なんじゃないか。
・やるかやらないかはやっぱり自分軸が重要。いったんあきらめたことでも、あきらめきれずにまた復活することもある。
・例えば小学生などにはあきらめた方がいいと教えるのは無責任だと思う。接する立場の人があきらめないことを教える必要がある。
・あきらめることとと単にやめることの違いを考えてみると、あきらめるという表現を使うときには、それを達成したときの状態や期待感がより明確にあり、その状態を待っていた自分も想像できているから、それを手放さなくてはいけないということが、単なるやめるとの違いなのかなと思った。
・自分軸とまわりの評価がどういう関係なのかもっと考えたいと思った。
2時間の対話を終えて
興味深いやり取りが続きましたが、時間が足りず、放課後にも対話が続いていました。そのなかで私自身が見えてきたのは、なんでもかんでもあきらめないわけではないし、なんでもかんでもあきらめるわけでもないということでした。
たとえば私自身は、「社会が対話的であるために、対話的態度の人が増えること」や「社会の問題について自分の頭で考え、自分の意見を言える人が増えること」などが自分がしている様々な活動の根底にある目的なのですが、これはずっと一生あきらめずにやり続けることだなと思います。でも、その手段として何をやるかは、例えば今は哲学対話をやっているけれど、そのときどきや人や場によって変わるだろう(うまく行かなければあきらめるだろう)と思います。自分のなかであきらめることとあきらめないことが意外とはっきり分かれているのだということに気づきました。
「あきらめる」、まだまだ引き続きじっくり考えていきたいテーマとなりました。
今後の開催予定
3月は3回開催します。
3月3日(日)10:00~12:00、対面開催。テーマ「推す」
3月14日(木)10:00~12:00、オンライン開催。テーマ「おせっかい」
3月23日(土)10:00~12:00、オンライン開催。テーマ「教える」
最新の開催情報は下記Peatixページに掲載しています。