落合での貧しくてまずい思い出
「落合」という地名は、今でも胸がキュンとなる。
甘酸っぱい恋愛の思い出が……というわけでは、残念ながらない。「fragile」というラベルをつけて大事に保存してある、特別な記憶だ。
落合駅は地下鉄東西線の、高田馬場と中野の間にある。少しの間、この街に高校時代の友人と住んでいた。浪人時代のことだ。
浪人生活をしたことがある人にはわかっていただけると思うが、それまでずっとどこかに所属していた自分が、初めて何者でもなくなった感覚というのは、とても不安定で、落ち着かないものだった。自分が何のために生きているのかわからず、心の叫びの持っていき場が見つからず、とにかくなんだかわからない気持ちを持てあましていた。何も考えずに勉強に集中できるような器用さは、残念ながら持ち合わせていなかった。
その共同生活をしていた部屋には、昼夜関係なくいつも誰か友達が来ていた。同じように不安定で心の叫びの行き先が不明な仲間たちだ。お金はみんな、ない。そして部屋にはテレビもなかった。
だから私たちがやることは限られていた。
ただただしゃべる。
誰かの弾くギターに合わせて歌う。
私が持っていった『ガラスの仮面』を読む。
お酒を飲んで酔っ払う(未成年の飲酒は当たり前だった)。
以上、だ。
同級生の一人が帰国子女で、完璧な英語を話す子だった。そして尾崎豊にそっくりな声で、歌がすんばらしく上手かった。その子がよく弾き語りを聴かせてくれた。ときにみんなで一緒に歌った。するときまって近所の人からうるさいと苦情を言われ、みんなであやまった。それでも小さい声でまた歌った。
あるとき、6人くらいだったかな、夜に集まっていたときに部屋にあったお酒が無くなってしまった。みんなの帰りの交通費などを除いた所持金を全部合わせてみたが、2,000円しかなかった。
そこで私たちは考えた。この2,000円で、最大限に酔っぱらうにはどうしたらいいか?
あれこれ話しながら、みんなでぞろぞろ最寄りのコンビニに行った。今はもうない「サンクス」に。
ビールなんてとても買えない。いやー、ビールって高価なお酒なんだねー。やっぱ焼酎じゃない?いや日本酒でしょ、などと言いながらコンビニで売っているお酒の値段をチェックし相談した結果、日本酒の一升瓶とコーラの1.5Lのペットボトルを2本購入して帰った。コークハイのように、日本酒をコーラで割って飲むことにしたのだ。
どうして焼酎ではなく日本酒を買ったのか、誰が言い出したのかはもう覚えていないが、とにかく部屋に戻り、日本酒を1/4ほど入れたグラスにコーラを注いだ。そして一口飲んでびっくりした。
想像以上の、驚くほどの、まずさだった。
え~どれどれ、わーほんとにまずーい、たしかにこれすごいまずいねー、とみんなで回し飲みしても、コップから全然減らないぐらいのまずさだった。なけなしのお金で酔っぱらう作戦はすぐにポシャってしまった。お金もないし、お酒もまずいし、ほんと私たちってどうしようもないねと、ゲラゲラ腹を抱えて笑った。そして、友人が弾きながら歌ってくれたMr. Big の「To Be With You」を聴きながら、ちびちび日本酒を飲んでその夜をやり過ごした。
その夜の、お酒のまずさと、笑い声と、歌声とを思うと、今でも胸がキュンとなる。何でもないけれど、何にもかえがたい、キラキラした特別な思い出だ。何者でもない自分が、ただの自分であるための、大切な時間と必要なイニシエーションだった。あの時間があったからこそ、私は母を失ったあとの空乏と父との確執を乗り越えられた気がする。将来、認知症になったとしても、絶対に消えないでほしい記憶である。