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【ゴミ拾いのボランティアを1年間してみて思う事】



この文章は自分の行動を文章化するだけで特に伝えたい事もないのですが40歳にして始めてした行為に対して自分の感情の変遷を残したいと思い書きました。

1年前からゴミ拾いのボランティアをしています。
月に1度お初天神に日曜の朝に10名ほどで集まって空き缶やタバコのゴミを拾ったり、グリーチング(ドブ)やまれに酔っ払った方が吐いた吐瀉物の清掃も行います。

なんでその活動に参加したかと言うと「世の中のためになる事がしたかった」というかっこいいものではありません。

当時僕は営業活動に疲れていました。
会社を経営しているので安定的に集客しなければなりません。

僕の大きな役割は営業なのですが、どこかで「人からお金をもらう事」にストレスを感じていました。
顧客に価値を提供してその対価としてお金を頂くので何も悪い行為ではありません。

ですがどこかで「自分のためにお金をもらう」という利己的な行為に感じていました。
営業する上でどこか相手に気に入られるように、そしてサービスを気に入ってもらえるようにと「自分を偽っている」ような息苦しさを感じていました。

会う人すべてが顧客になる可能性があるので脳みそでそろばんを弾いて「この人と絡んだら得かな?」「この人と絡んでも得ないかな?」と損得勘定で他人と接するようになってもいました。

そんな中で「まったく自分の利益にならない行為」をどこかで求めていました。

「損得勘定から離れた行動」を求めていました。

ある日営業先で出会った社長さんと話す中で「ゴミ拾いのボランティア」の話を聞きました。
まさに僕が求めていた事だったのですぐに参加する事にしました。

初めて参加した日は街中でゴミを拾う行為が少し恥ずかしかったのを覚えています。

どこか偽善者ぶってるんじゃないか?とも思われるんじゃないかな?とも気にしていました。

ただ通行人に見られるたびに「えへん!こんないい事してるおれどう?」という優越感も少し感じていました。

ただ終わった後の清々しさは大きく、自分を肯定する事ができました。

そうやって損得勘定で生きる自分とのバランスを保っていました。

ゴミ拾いをする上で自分の中にある矛盾や人間の習性を学ぶ事もできました。

ゴミ拾いというボランティアをしているのにも関わらず「このゴミは嫌だな」とか「早く終わってくれないかな?」という面倒くささを感じる事があります。

そんな時にグッと踏ん張って自分が嫌な掃除や面倒な作業に向き合うと自分をより肯定する事ができました。

ゴミは目立たないところに隠されている事が多いです。みなさんも経験あると思いますが、自転車のカゴの中に空き缶が捨てられている事ありませんか?あれは空き缶を街中に捨てるという罪悪感を自転車のカゴの中に捨てる事で少し軽減しているのだと思います。

どこかでゴミを捨てるという罪悪感を感じているので隠せる場所を探して目立たないコンクリの隙間やドブの中に捨てられる事が多いです。ゴミの捨て方を見ていると人間の弱さを見れて面白かったです。

ゴミ拾いに来ている方々は、利他的で優しいコミュニティでした。

経営者の方と一緒にいるとギラギラして派手な時計つけて「稼いでますよ」の見栄の張り合いに疲れる事がたまにあります。

自分より年配の方が多いのですがそんな方々と話していると癒される事が多いです。

参加し始めて数ヶ月経つと娘を連れていく事が増えました。

「世の中にはみんながやりたがらない事をしてくれる人がいる事」「それを率先してできるようになっておく事」が人生にとって大切な気がしました。

やりたくない事をやれる人が人生においてとても有利だという事を経験上感じています。

それが少しでも伝わってくれたらうれしいなと思います。

ゴミ拾いをしていると色んな反応があります。
「ありがとうございます」と声をかけてくれる方もいてとてもうれしい気持ちになります。

まれに「このゴミも捨てといて!」とゴミをわたしてくる方もいます。
正直イラッとするのですがコミュニティの仲間に相談したら「そういう気配を感じたら自分から受け取りに行くと気持ちいいですよ」という事を教えてもらいました。

確かに受動的だとなんでも嫌になるけれどそれを自分から受け取りに行けば能動的になり「自分の意思」での行動になる。

人生の幸福度を高める上で重要な考え方の気がします。

そんな自分の中での気づきを毎回得れています。

この文章を最後まで読んでくれた方は「こいつ営業のストレスをゴミ拾いで解消してるなんて変な奴だなー」と思ってもらえたら最高です。

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