私にとって特別な猫、リオを亡くして今年で5年になる。 リオは、知っている方は知っているだろうけれど、夫と離婚するかどうかで別居して精神に異常をきたして実家に居候していた時、私のためにと親がペットショップで買ってくれた猫だ。 動物嫌いの親が動物を飼うというか、猫に助けを求めるほど、私は相当おかしかった。 リオを迎えた時のことを昨日のように思い出せる。 リオのおかげで、包帯が取れる度に切っていたリストカットの回数が減り、リオが食べるから私も少しずつ食べるようになって拒食症もマ
子供時代、ちゃぶ台を使ってご飯を食べていた時期があった。 小学校三年生くらいまでだろうか。 実家は自営業で、父が在宅している確率が高かったとはいえ、両親が顔をつきあわせるのは夕飯時だ。 そこで当然のように罵倒の応酬が始まる。 私と妹はうつむいて無言でビクビクしながらご飯だけをちょっとずつ食べる。 おかずもあるのに、腕を伸ばさなければならないから、おかずはあまり食べられなかった。 少しずつしかご飯が食べられないから、当然半分くらい食べた頃にはもう冷めている。 湯気のある内にご
昔、いつ言ったのかも思い出せない昔、干した洗濯物が日を浴びて風に揺れている光景を見て、多分Twitterで「幸せ」って呟いたことがある。 多分その呟きを覚えていた誰かに(誰に言われたのか覚えてない。記憶障害持ちなので)「チープな幸せ」って言われた。(そういう非難や嘲笑、悪罵だけは覚えてる) 洗濯物を干す、という普通の人なら当たり前にできるであろう行為だからチープと言われたんだろうけれど、私には当たり前にできなかった。 一日の内、何か一つでも有意義なことができただけで、気力体
字が読めるようになった頃から家庭・学校の環境から、現実逃避するために読書に耽溺していた。 主に読んだのが、ファンタジーと推理ミステリ系。 ファンタジーはまあ現実逃避するのにうってつけだ。 けれど、推理ミステリ系はなぜあそこまで執着して 読んでいたのかということを疑問にも思わず、ひたすら読み続けた。 ざっと30年以上、推理ミステリに耽っていたことになる。 40歳近くになって文学に目覚め、それからは推理ミステリはあまり読まなくなった。 最近になってふっと気が付いた。 私は推理
「罪人レプリカ」 眼を 抉りました ナイフで この眼はもう二度と 何も、映さない 醜いものが 私は、嫌いです けれど永遠にうつくしいものなどは 無いのだと解った 春の雨と風に翌日の道一面に散った桜の 淡い薄紅だった満開のうつくしいものが 踏みにじられ黒ずんだ無数の花弁 汚れて、穢れて 右目を抉りました 雪が降り積もっていた、うつくしい朝 夜には泥だらけで道端に除けられていた 全ての色を受け入れ拒んだ凛とした白が 汚れて、穢れて 左目を抉りました
Online Wrters' Club(略してOWC)の花緒さんに、先々週に続いて またしても私の書いた詩を土台に戯曲化して頂きました! 戯曲(モノローグ)は生意気ながら野暮な発言で改稿してもらうという一拍を挟んで、昨日その改稿版を見て飛び上がらんばかりに嬉しくなっちゃった。 もう凄いの!! この詩からこの戯曲が!? って感動しちゃった! 同時になぜこの作品を私は書けなかったんだろうと歯噛みするほど悔しい。 その作品(戯曲)は後でリポストさせて頂くとして、花緒さんにお渡しし
以下の詩は10年位前(多分)に書いた詩です。 自分ではすごく気に入っていて、書いた当時のことを思い出すと、今でもあの時はこんなにも辛かったんだなーと感慨にふけってしまう。 その当時の私の近辺に関することなんて一行も書いてないのに、当時抱いていた魂を込めたから読むたびに辛さが蘇ってしまって、それがまた、愛しいのです。 --------------------------------------------------------- 「弔い人形」 なるべく私に似た人形を探す
表現者というのは、魂の露出狂だと思っている。 私を見てほしい、くまなく見てほしい、見せていないところまで想像して私で頭をいっぱいにしてほしい。 とにかく見てほしいのである。 見られることの快感たるや何物にも代えがたい。 そうして、見ている側のどんな反応もまた快楽に結び付く。 うっとりみられる、賛辞を贈られる、冷静につくづくと眺められる、醜悪なものを見た、と言わんばかりに露骨に顔を背けられるのもまた良し。 得られる反応は全て嬉しい。 何の反応もないのが、一番悲しいのである
綺麗な言葉遣いは無料でできるおしゃれ、とはよく聞く言葉で、誰が言ったのかと調べてみたらカズレーザーだった。最初に聞いた時から良いこと言う人がいるなあと思っていた。 大事なことほど丁寧な言葉遣いで言うと、誠意や真心といったものが相手に届きやすい。大事なことじゃなくても、普段から丁寧に話す習慣を持っている人はそれだけでその人を信頼できそうだと思える。 おしゃれ、というのは装うということだ。第一印象で相手のことをだいたい「こういう人だろう」とアタリをつけるものだが、それをあとに
自分を指して「私は詩人です」という人のことが長らく大嫌いだった。谷川俊太郎や最果タヒなどの一般に膾炙された人などが言うなら、それは自他ともに認める詩人だろうと思っていたけれど、ネットで細々と書いているだけのような人で、実際にその人の作品など読んでみても「これで自称詩人ですか…」と失笑してしまう人ばかりに遭遇したせいかもしれない。どれだけ「詩人」なめてるんだと思っていた。 でも最近考え方がほんの少し変わって、私がそういう自称詩人の類を嘲笑っていたのは、私の問題なのかもなあと思
一週間前から毎日、朝起きると実家の事を思い出してしまって鬱になってた。昨日、おとといはもう耐えきれなくて朝から頓服飲んで、家事もできずソファに寝転がっていたり、夫のそばで一日中読書をしたりと甘えた生活を送っていた。 私の朝は早い。睡眠障害なので、だいたい午前3時くらいに起きる。一時間か二時間、換気扇の下でぼんやり煙草を吸いながらとりとめのないことを考えている。それに疲れて一時間くらいこたつで寝ようとするのだが、頭は眠いのに、子供の頃親にされた仕打ちを不意に思い出してしまって
最近フォロワーさんが立て続けに詩の投稿サイトびーれびについてツイートしていたので、久しぶりにのぞいてみた。 いくつか読んだけれど、そういえば人様の詩を読むのも久しぶりだなあと感慨にふけった。あまり好みの詩はなかった。 詩というものは小説と違って、どうしたって自分の魂の一部なりと宿っているのが透けて見えてしまうものだ。小説はその長さによってごまかすことも可能だが、詩はその短さによって端的に表れてしまうものだと思う。同じフィクションを扱っていても、なにをフィクションとして描い
うちの夫は料理を趣味にしてくれるような理想的な男ではない。 最初に作ってくれたのは13年位前、私が自殺未遂をしたとき、手首をホチキスの針みたいなもので27か所皮膚を閉じ合わせていた時に、2回作ってくれた。すごく美味しかった。すごく簡単な料理だったのだけど。 折に触れて、あの時食べたご飯は美味しかった、と言ってきたのだが、調子に乗って「じゃあまた作ってみるよ」ということにはならなかった。 そこで去年のクリスマスに、私はプレゼントとして手料理が食べたいといった。夫は割と素直
そもそも私が詩を書き始めたのは、PCをボーナスで買ったのが始まり。 PCに触ったことがなかった私はPCに慣れるため色々ネットサーフィンしたり興味のあることを検索したりして、習うより慣れろ精神で好きなことをすることでいつのまにか使いこなせるようになろうとしてたのだ。 そのなかで目に留まったのがニフティの詩の掲示板だった。詩なんてこれまでの人生で手に取る機会はなかった。国語の教科書でちらりと習った程度だ。見るともなしにアマチュアの皆さんがUPした詩をつらつら眺めていたら、あま
以前の記事、「私はバイセクシャルです」でも書いたが、私はいわゆる男らしい男性は恋愛対象にならないばかりか、人間的に苦手だ。女性成分多めの男性に好意を抱くし、安心する。で、男らしい男性って、高確率で下ネタが好きだと見立てている。 私は女の前で下ネタを話す男が大っ嫌いだ。 なんでこんなに生理的に受け付けないのだろうと考えてみたら、下ネタ好きの男って、要するに女を「モノ」扱いしているからだなと結論した。 女の人格には重きを置いていない。興味があるのはその身体。その身体について
うちには刃物がない。 正確に言うなら包丁とハサミと夫の髭剃り以外の刃物はない。「カミソリなんてあったら君簡単に切ろうとするだろう」って、カミソリ、カッターの類は全て捨てられてしまった。安全カミソリさえ捨てられた。無邪気に安全カミソリの刃を覆っているプラスチックの部分を外そうとしてみて外れなかったので、ああ本当に安全なんだなあと感心して夫にそれをそのまま言ったら、分解するなんて怖いなにやってるんだ君は!! ということで、捨てられてしまったのだ。 それで、リストカットという行