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人として正しい姿って何? ―朝井リョウ「正欲」感想

長いこと読むか迷っていた、朝井リョウの「正欲」を読んだ。傷を抉られそうな気がして、怖くてなかなか手が出せなかったのだ。
友人が読んだと教えてくれたのがきっかけで、精神状態が健康なタイミングで、思い切って読むことにした。
すごく重たいものを心の中に残された気がする、と思ったが、この重たい感情はもともと私の心の中にあったのだろう。朝井リョウの著書は「何者」だけ読んだことがあるが、できれば目を背けていたいような人間の汚さを、まざまざと突き付けてくる。
そして、突き付けられたからには何かアウトプットしないといけないという衝動に駆られて、これを書いている。

マジョリティ側に立つ私、マイノリティ側に立つ私

田舎の典型的な人生

異性を好きになり、結婚して、子供を産んで、そしたら仕事はそこそこにパートとかして。女友達と喋って愚痴りあうのが息抜き。
尊敬する人は両親で、時々は親孝行して、最期は自分の子供や孫に看取られて死ぬ。

中学生くらいから、そういう人生を思い描いている周りの子たちを、一歩引いて見ていたことを思い出した。
私はこれを「田舎の典型的な人生」だと思っていた。田舎で選択肢がないから、みんなワンパターンな人生を描くのだと。
息が苦しかった。選択肢がないことも、異性愛者であることが当たり前とされていることも、みんながそれに疑問を抱いていないらしいことも。
早くここから脱出しなくちゃ、とずっと思っていた。

地元を出て大学生活を送っていた頃、自分の性的嗜好がちょっと偏っていることに気付いた。お仲間はネット上ではそれなりに見つかったが、いわゆる女子同士の会話では何も言えなかった。分かってもらえないだろうし、簡単に理解されてたまるかという気持ちもあり、言いたくもなかった。

夏月と佳道の話を、私はマイノリティの立場として、苦しみを理解しながら読んでいた。息を殺して生きるか、仮面を被って生きるかの、二択。私は後者だった。どうやって普通の人間のフリをして人生をサバイブするか、ずっと考えていた。
それでも、高校、大学、就職と、自分が選択した人生を歩むにつれて、近い部分を持つ人(少なくともテンプレ人生を疑問に思うような人)が増えていった。否定はされなくなり、代わりに自分の意見を述べてくれる人が増えた。自分と似た人間がいる環境に身を置くにつれて、居心地が良くなった。

啓喜の家庭の話

いま自分は、息子を正したくて話しているのか、その浅はかな思考への嫌悪感をエンジンにただ加虐しているのか、よくわからなくなっていた。

朝井リョウ 正欲(新潮文庫)

こっちを読む方が辛かった。啓喜と同じような考えを持っていたから。
マイノリティ側の人間として夏月の話を読んでいたのに、啓喜の息子の話は、思いっきりマジョリティ側である啓喜側に立って読んでいた。自分の中の矛盾を突き付けられてしまった。

自分が生存バイアスの強い人間であることは自覚している。
よくある程度だとは思うが、私は家庭環境があまり良くなかった。お金に不自由したことはなかったが、家族といて心安らげる感覚はない。兄弟が不登校だった時期もある。当時私はすでに実家を出ていたが、この頃家族関係が最悪で、心の奥底に沈めている忌まわしい記憶がいくつかある。

啓喜の言うことは、よく分かる。なぜ自分から道を逸脱してしまうの?足りないものを嘆くより、手持ちのカードでできる最善手を打つべきでしょ?と、内心いつも思っていた。正論で他人を殴るのは気持ちいい、相手は何も言い返せないから。
これは、「私は人生の勝ち組になるために努力してきたのに」というある種妬みの気持ちの裏返しなんだろうか……。それでも私は、現状に不満ばかり言って行動しない人間は嫌いで、人として正しくありたいという欲求が強い。一部の側面を切り取ったら、全然正しい人間なんかじゃないのに、そう思ってしまう。

合法的に欲望を満たすのに、金を惜しむな

食と睡眠にお金をかけるのはいいこととされるのに

私の性的嗜好はあまり人に言えないが、自分が法に触れるかを考えたことは多くは無い。どちらかというと、相手が法に触れる心配の方が大きかったと思う。これは男女の物理的な力関係によるものだろうが。
どんなことであれ、なんとか法に触れずにやろうよ、と思うのだ。

手を組める同志がいるのは、いいことだ。私も同志たちの供給により生かされている。当然代金は払っているものの、私からも何かを返したいと思って、最近はレビューや感想をなるべく書くようにしている。

三大欲求を満たすのに金と手間を惜しむな、と思う。一人数万円するコース料理を食べたり、高級寝具を揃えたりするのと同じように。食材や調理法に試行錯誤したり、理想の寝心地のマットレスを探して寝具売り場をハシゴしたときのように。
私は食にも睡眠にもお金をかけている方だと思う。世の中この2つにお金を惜しまない人は沢山いるし、それを否定する人は少ない。じゃ、残るもう一つの欲求だって同じでいいのでは?
いろんなものがインスタントに手に入る時代ではあるけど、合法的に欲望を満たすために、お金を使うか、頭を使って工夫すべきなのだ。

理解できないものが存在することを忘れるな

夏月、佳道、大也たちが手を組んで、やっと前に進めたのに、"理解できないもの"の中の”まだ理解ができるもの"にまとめられてしまったことが、本当に悲しかった。
最近お世話になっている某所でクレカ使えなくなったこともあって、自分にも関係ある話として、すごく悲しくなってしまった。
もちろん厳しく取り締まる必要があることなのは分かっているが、性犯罪の根絶を願う自分と、所謂愛の行為では満たされない自分が引き裂かれていく。

この世の中には、理解の及ばないことが沢山あることを忘れてはいけない。理解できないことを、存在しないものとして片付けてはいけないと思う。まだ我々はヒト一人の脳すら、解明できていないのだから。

「普通」なんて存在しなくて……幻想に過ぎない。理解できないものは怖いから、多数派の枠組みに押し込めているだけ。自戒としてもそう思った。

八重子と大也の対峙

対峙シーンは、相互理解のためのいいぶつかり合いなのか?

友人曰く、「八重子が好きになれない」とのことだったので議論してみた。八重子のやっていることを客観的に眺めると、関係性を築けていないのに勝手に自分のことを曝け出し、相手にも曝すことを強要している。
これって沙保里(夏月と休憩所で一緒になるイヤな感じの奴)とやってること一緒じゃないか?と思った。なぜか八重子は、理解のあるいい人みたいに見える気がする。

大也と対峙するシーンでも、良いことも言っているのだが、好きだから分かってあげたいというエゴが滲んでいる。
そこが気持ち悪くて、人間くさい。八重子は一番、リアルに存在していそうだ。自分のことを棚に上げて、他人からそういう目線を向けられるのを嫌がっているあたりも。それを自覚しているあたりも。
どうすればよかったのかというと、自分の開示はしてもいいが、相手が言いたくなるのを待つのが良いのかな……。

感想を言い合える友人がいることへの感謝

夏月は知っていた。佐々木佳道という人間の中には、その肉体の端から端まで、思考と言葉がぱんぱんに詰まっていることを。これまで自分が構築してきたものと同じ種類の哲学が、この薄い皮膚の向こう側でじっくりと熟成されていることを。

朝井リョウ 正欲(新潮文庫)

この本をマイノリティ側の慟哭として、他人事として受け取る人もいるんだろうな、と思うと苦しくなる。
それと同時に、この本の感想は上っ面で当たり障りないことを書いても面白くないだろうと思った。私のバックグラウンドという樽の中で熟成された哲学を語らねば、と。

この哲学を話すことのできる友人がいることに感謝だ。過去に自己開示してきたこと、ある程度友人側からも開示してもらえる関係性を築くことができたことが、貴重なことだと思う。

これを読んでくれた貴方にも感謝。私も他の人の感想をこれから沢山漁りたいと思う。

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