都市に懸ける呪詛: クレジオ『悪魔祓い』
言葉は追われた、沈黙は殺された、海も、星も、大地も喋ることをやめた。その代わり都市が擡頭した。都市は悪魔になって人びとに憑依し、都市の目と言葉を授けた。けれど都市へ呪詛を与え、都市という名の悪魔を肉体から祓った時、わたしたちの肉体はインディオのそれに変容する。
『悪魔祓い』
叢書「創造の小径」の3冊目として出版されたのは、ル・クレジオの『悪魔祓い』(1975)。訳は高山鉄男。原題は『Haï』(éditeur d’art suisse Skira, 1971)。
タヒュ・サ ―すべてを見る眼―
本書は序言を除いた全三章の構成による。章が進むにつれて話が展開していることを踏まえ、本記事も章ごとに評していきたい。
眼とはなにか。クレジオは二つの眼を語る。都市の眼とインディオの眼である。都市の眼とは、わたしたちの眼のことでもある。記録し、監視し、撮影する眼。残忍さと貪欲さを兼ね備えた眼。これがわたしたちの眼である。それはあだかも、すべてを見ているかのような眼である。
対して、クレジオによればインディオの眼は「ただ見つめているだけ」(P32)の眼である――Signe を見る眼。
引用文の最後に呈示された謎かけに対する直接的な答えは語られぬまま、即座に話題は「沈黙」へと移行する。もっとも、その話題の移行は、見ることの無〔性〕の強調が、聴くことにおけるそれへと転換されたものと解釈することもできる。〈沈黙〉というテーマは次章の中心的主題へと高められるため、件の謎かけへの言及は保留としたい。そこで、「タヒュ・サ」の冒頭に言及された「言葉」を引き合いに、眼についてもう少しだけ考えておく。
クレジオは都市とインディオの対比として眼に触れた。同様の機能が言葉にも与えられている。都市の言葉は信号のようである。絶え間なく、常に何かを発している。注意深く聞いてみると「進歩、歴史、宇宙の征服、と言っている」(P18)。そして「言語の根拠は言語それ自体であると言っている」(P18)。しかし、これは誤りである。なぜなら言葉は言葉を翻訳したものであり、翻訳された言葉の方は結局、永遠に読まれないままだからである。
インディオは言葉の限界を知っている。そしてまた、言葉の危険性を了解している。それだから、「沈黙の力を、インディオは本能的に知っている」(P33)。
ベカ ―歌の祭―
インディオは沈黙を発見した。つまり、沈黙はインディオに先行して存在していた。「密林で驚かされるのは、そしてすぐに耐え難く思われてくるものは、濃密で、深く、脅かすような沈黙だ」(P33)。しかし、それだからこそインディオは言葉の脆さと恐ろしさを知っているし、音楽の限界や能力を了解している。
インディオの音楽は叫びであり、騒音である。語らい、身振りをし、呼びかけるためのものである。だが、クレジオによればインディオの音楽は沈黙を補完するためにあるのであり、決して沈黙を殺害するためにあるのではない。音楽は言葉を圧倒する危険な存在で、おそらくその効果は沈黙と同じような厚みをもっている。
ところで、それではインディオにとって歌とはなんであろうか。西欧音楽の、というよりモダニズム的な解釈なら、きっと歌は音と言葉という要素、媒体によって成立した形式であると言われるだろう。だが、インディオの世界において、言葉と音楽と歌は、たとえ相互に影響することはあっても独立した存在である。むしろ歌は両者の「中間」(P66)に位置する。
こうも言われる。歌は歌声が人間に憑依したもので、「高音の流れに乗って彼の喉から、魂や名前や存在の深みが逃れ出て行く」(P79)。だから、歌は呪術で音を鳴らすこととは異なる。目に見えない世界と接続する方法、夢想の世界、欲望、恐怖、酩酊、そして死の世界へ到達する方法。「ただ音色と音調と音の高さだけに意味があるのだ」(P90)。
カクワハイ ―悪魔を祓われた肉体―
クレジオは都市を呪う。都市に生かされ、都市に生きる人びとを奴隷のごとくにする人間をも呪う。都市も設立以前にはインディオの森と同様の世界があった。沈黙があり、沈黙に酔い痴れる海、砂漠、森林、天があり、それらが語る詩が偏在していた。しかし、都市は物を監視し、詩を退け、沈黙を殺した。都市に生きる私達の肉体には都市そのもの――悪魔が憑依した。
他方で、インディオを通じて理解した肉体、それこそ、ル・クレジオの肉体は悪魔の祓われた肉体である。クレジオが述べてきたのはこのことであり、それだけにクレジオに導かれた私達も悪魔祓いの被体者となったのである。
付記: 図版について
クレジオは本書所収図版について、「これは博物館のカタログではない」(P146)としたうえで、図版を<インディオたち><わたしたち>と分類している。そのため、本書の図版の解説・出典を参照をされる際には、他のシリーズ本と若干つくりを異にしているので、注意されたい。