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ある悲しみ、ない幸せ

自分は一体何を表現したいのだろうか。
自分は何を追い求めているのだろうか。

学生から起業するまでの頃、やっては繰り返し、わからなければ調べ、なければ作り、表現できなければまた漁り…何かに取り憑かれたように、いろんなことに挑戦したり表現したり、自分自身を探し回っていた。

花屋になって20年。
一度、制作に没頭することから抜け、また新たな方向で道を歩み始めた。(結果は花の業界に戻ってきたのだが。)

その一連の中で感じることは

“表現”できない苦しみだった。

「何かをやりたい」「何かを表現したい」
「何かをカタチに残したい」

その結果、この場所に戻ってきたかったのか、果たしてこの場所にきっかけを探しに戻ったのか、まだよくわからないが、花屋に帰ってきた。

ただ最近、Instagram、threads、note。
この三本柱で自分の記憶を整理するように、いろんな形で(特に文章)表現するようになった。
ありがたいことに共感してくれたり、新たにお付き合いができる方々が増えている。

その中で、上記のような話が“議題”に上がった。

『何かを表現したいのだが表現ができない』

側から見たら少し羨ましい悩みのようにも聞こえるが、実は現代社会の悩みに近いような気もした。

それは【世の中にモノが溢れすぎている】

つまり『選択肢』が多すぎるということ。
私も近い現象がよく起きる…

例えば「何か始めよう!」と思い立った時、
表現したい人たちは色々なアイデアが生まれる。
絵を描く、文章を書く、映像を撮る、写真を撮る。

しかし、表現方法が増えたのか、表現する場所が増えたのか、はたまた手法のハードルが下がったのか定かではないが、表現する『選択肢』が異常に増えてしまった。

もちろん自分が求めたい表現を追求するためには、色んなことを試すことも大切なのだが、
一貫性に欠けていることに気づく。

ではこの“一貫性”とはなんなのだろうか。

モノや表現方法、表現するツール、場所が、少なかった頃は、一番身近にある限られたモノで限られたことを表現していた。
その制約からなんとか脱したいと、苦しんではもがき、自分の理想の形を追い求めていた気がする。
その中で生まれる、技術、表現、思考が、自ずと自分自身を見つめ直し、日々の自分の方向性を交通整備するように制作に没頭していたのではないだろうか。

では今はどうだろうか。
そもそも表現する。ということ自体、ハードルが下がり、表現が身近になってきた。

いいことでもあると思うが、
語弊がないように言うと、本物と偽物が混在するようになった。

そもそも表現するということは、簡単な行為だったのだろうか。

情報社会のツールに悩まされているのも事実だが、その中でいかに本物に出会っていくのか。
それと同時に《表現したいこと》があるのかないのかも大切なことなのではないだろうか。

皆様は《表現したいこと》はあるだろうか。
固く話せば、作品を作ることに、ミッション、ビジョン、コンセプトはあるだろうか。

モノが溢れている現代社会。
自分で進みたい方向と、自分で進みたい道を今一度見つめ直し、今の表現方法が合ってるのか間違ってるのか解いて欲しい。
もしそれがないのなら、真剣に向き合うべきだ。

モノが溢れてる社会に甘えてはいないだろうか。
隣の芝生が青く見えてはいないだろうか。
表現したいことは、それがあれば完結するのだろうか。

それは本当に《表現したいこと》なのだろうか。

私も今一度自分に問いかけていこうと思う。


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