老眼をアンインストールする
前回の続き。
初期(←と信じたい)の老眼により、職場でのパソコン作業があまりにも右目にこたえ始めて難儀した。右目が痛いのでメガネが欲しいと言っていると、それってなんか違うんじゃないかと何人かから言われた。確かにそうかも。
少なくとも20年前には既に、目の左右差がとても気になっていた。まぶたのかたちも全然違うのだけど、なんて言うか、最大の違いは、右目はあまりにもらんらんぎょろりとしていて、たぶん1mm くらい黒目の位置が左目よりも高く、そしてたぶん若干小さい。だからまっすぐに鏡を見ても、右目だけ下が浮いた三白眼のようになる。ひとことで言うと、至極不自然で人形のようなのである。あんまり自分のものだと思えない。
行きつけの整体で相談してみても、人たるもの左右差はどうしてもある、と言われる。それはそうなんだけど、右目が人形みたいじゃないですか?と言ってもなかなか伝わらない、当然それもそうだ。意味不明であろう。
・・・埒も明かないし、痛くてこまってて問答している場合じゃない。結局潜在意識にもぐります。
体の反射をさぐりながら、すこんと力が抜けてしまうところに「何かある」とみなし、深掘りしていきます。体は見事にいろんなことに答えてくれる。そして潜在意識はおそろしく、昔のことまで覚えていて呆れかえる程なのである。けっこう根に持つタイプのようである。
ぐんぐんと潜ると「自分はだめな人間だ」という思い込みがヒットした。どうしてもこうしても、私はだめな人間なんだという思いが拭えなくて、過去にさまざまカウンセリングを受けたりしたけれどどうしようもなくこいつは、しつこい奴だった。これ、何を起源にいつ得てしまったものなのかというのを掘り進んでいるうちに、ふと目からぺろりと何か剥がれおちた。
「あぁそうか、この自己卑下、私のものじゃなかった。」
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子供って、取り込みというのをする。
もしも理不尽なスタンダードがあったりした場合に、それで自分が随分と痛い目に遭わされていた場合に、それを理解するため、そして自分に降りかかってくる火の粉を最小限に抑えるため、周りの(優位にある者の)スタンダードをそっくりそのままダウンロードしてしまう。生きる知恵というか、それしかサバイブする方法はない。
たとえて言えば、突如遠く離れた知られざる場所に暮らさなければならなくなった場合、そして文化も信仰も生活様式もとんでもなく違う場合、今日の私の姿格好がふさわしいものであるか、現地でトライアンドエラーを繰り返しながら落としどころを見つける必要がある。村でとんでもなく浮いてしまって袋だたきに遭ったりしないよう、全身くまなく蚊に刺されたり、或いは目立ちすぎて肉食動物の標的になったりしないよう、周りに溶け込んでいるような動作をすることになる。その場所のしきたり、宗教習慣、行動パターンでもなんでもかんでも、とりあえず真似して危険を回避する必要があるかもしれない、少なくともその場所にいる間だけは。
それを幼い子供は地で行く。大人みたいに「今だけね」と便宜を図らず、がっつり取り込んでしまって自分のだと思い込みはじめる。だいたい7歳くらいまでは顕在意識とのはっきりした区別なく、潜在意識むきだしなんだって。
そのダウンロードした(された)スタンダードは、その時の生活では身を護ってくれたものだったのだろうけども、今はもう必要ないよね。40も過ぎたしね。
結局のところその自己卑下は、周りから私に対して向けられたものだったのかも知れないし、取り込んだ対象者が自分に対して持っていたものだったのかも知れない。自分のものではなかったのだと分かればもうそこから先は私の関与できる「私の課題」ではなくなってしまう。
あぁ、だから「目」だったんだなと腑に落ちた。
「人の目」だったり「ものの見方」だったり、目という器官は周囲を見て、判断して、ものごとをジャッジして裁く器官でもある。
私は私のものではない判断基準をインストールして、自分を常に裁いていた。それは私の目ではなくて、だからまるでニセモノのような眼球でらんらんと目を光らせていた。常に見張ってジャッジできるように。そして獰猛な裁判官はやたら極刑をくだしたがってた。
これを書くのは結構ためらわれた。だって怖いから。怖くない?取憑いていた他人の目。
これ相当怖いと、私は思った。怖いよね。そしてじぶんでこんなに大きな枷をはずせたことに、心から感謝した。随分おおきく強くなったもんだ。
そしてそして私の右目はもう、朝から晩までエクセル見てたって痛くなくなった。やっぱり小さい字はあんまり見えないんだけど。