終戦記念日の邂逅
8/15に出張先の中国より帰国。もろもろの日本式の防疫検査をクリアし、ハイヤーで自宅へ。
二言三言、挨拶をした運転手さんの言葉が少し聞きなれた中国の方が話す日本語のようで、名前は完全な日本人なので帰化した方かな、などと思いながらハイヤーに乗った。
久しぶりの日本で気分が高揚していたか、面倒な防疫手続きを終えて解放感を得たかの理由で色々と運転手に話しかけてしまった(※後から聞くと本来こういう時期なので会話してはいけなかったんだとか)。
自身が中国から久しぶりに帰国した事を語ると、運転手の方も山東省で育った過去があるとのことだった。祖母が日本人で、そのため日本国籍なのだという。
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彼の祖母はいわゆる満州で育った。
戦争末期の逃げる最中に銃撃に遭った。彼女の母親が覆いかぶさるようにしたために、彼女自身は肩を撃ち抜かれたものの致命傷にならず、かつ死んでいない事を相手に悟られず済んだが、彼女の母親は彼女の上で死んだ。
彼女は戦争孤児となった。日本へは帰る事ができなかった。そして、戦後の中国では日本人だからとひどい目に遭った。
「でも祖母は、日本に帰りたいとは言いませんでした。戦後の中国でひどい目にあいましたが、日本は私を捨てていったとの思いが強く、どちらの国も嫌いだから、と言っていました」
肩の傷跡を見せてもらった事もあったそうだ。結局、その後の人生で彼女が日本に帰る事はなかった。
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終戦直後の中国人民には、日本人と知られれば殺されるかもしれないほど、侵略をした日本に対する怒りと恨みがあった。
そのうえ、中国はたて続けに、建国の激動や文化大革命などの混沌を経る事となる。その悲惨と荒廃は、『ワイルドスワン』というノンフィクション小説に詳しい。
運転手の祖母は、さらにその中で日本人という立場の弱い身分で過ごしてきたというのだから、言語に絶する環境であっただろう。戦争と内紛の愚行に翻弄された、厳しい時代の人であった。
それでも生きてこられたのは、庇護した人がいた事も示唆される。庶民の中にやさしさのつながりがあったであろう事を推察した。
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「私は日本に来てもう23年ですから、中国現地の事はよく覚えていません」
運転手は軽く笑いながらそう言った。
今は晩酌が日々の楽しみで、特に清酒が好きだそうだ。冬は熱燗、夏は冷でも常温でも。『夜明け前』というブランドが特に好みだと嬉しそうに語ってくれた。
私も山形で美味しい『住吉』という清酒に出会った事を語った。
「平和は大事ですね。お互い、良い晩酌をしましょう」
そう語って車を降りた。
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数奇な運命をたどり、今の世代がある事を改めて思う。
人類は前後200年の歴史の中に生きる、という。日中戦争はまだ100年もたっていない現代史の一部だ。そしてその清算も、完全には解決を見ていない。
運転手の祖母は「日本も、中国も嫌いだ」と言い残した。いち民衆の真実の言葉であったのだろう。戦争に肯定すべきものは何もない。庶民にあるのは悲惨のみだった。それが歴史の経験者が語り残したことであった。
私の世代には、「日本も、中国も好きだ」という人が何人つくれるだろうか。中国に縁ある日本人として、日本人も中国人も、双方の人たちが互いに肩を組んで美味い酒でも飲み交わしていけるような時代であるよう、貢献していきたいと願う。
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