冬めいた日・・・・その2
知合いの喫茶店で話していると、雑然とした本や小物の中に、大きい古そうな白黒の家族写真があった。
知合いの喫茶店で話していると、雑然とした本や小物の中に、大きい古そうな白黒の家族写真があった。
A4くらいのその写真は、縁の方が黒く銀塩化?しており、年代を感じさせる。
この写真は、元の写真を複写したそうだ、元の写真は本家筋にあるそうだ。
写真は、軍服を着た男性と子供も一緒に、10人くらいが写っていた。
この写真は、喫茶店のマスターのお母さんの子供のころの家族写真で、おじさんが、出兵する時の記念写真だそうだ。
おじさんは、太平洋戦争で亡くなったそうだ。
中ほどに写っている女の子は、広島の原爆で建物の下敷きになりなくなったそうだ。
原爆が落ちて、助かった家族が捜しに来た時に、家の下敷きになり、他の家族と2人で亡くなっていたそうだ。
その他の多くの家族も、原爆では生き延びたけど、その後、いろいろな病気や癌になり、次々に亡くなったそうだ。
今では、この写真の中で、生きているのは、主人の高齢になったお母さんと、もう1人だけとのこと。
彼は、「原爆を浴びた人は、いろいろな病気になったり、がんになったりして、ずいぶん、苦しんで、、、死んでいったんよね・・・」と淡々と話す。
私が広島にすむようになり、概ね半世紀すぎた。
いつもは、まるで、気がつかないが、なにかの時に、広島に元から住んでいた人と話すことがあると、こうした話をなにげなく聞くことがある。
ふだんは、こうした話は、ほとんど話をしないから、ある時、何気なしにこうした話を聞くことになると、その時に、ここは広島なんだと思う。
今年、半世紀ぶりに行われた同期会で、春先に連絡があった、高校時代に仲が良かった同級生が、同期会で亡くなったことを知った。
彼は、春先に、がんの治療中だと言っていた。
彼とは呉の高校時代に仲が良かったが、彼の家に遊びに行った時に、彼は
「僕は、被爆2世なんだ」と言った。
その事は鮮明に覚えているが、私がどう思ったのか、どう答えたのかは覚えていない。
当時、私は、その言葉の意味を、どのように受け止めたのだろうか・・・
彼は、子供と孫と一緒に暮らしていると言っていた。
彼はなくなったが、考えれば、彼の子どもは被爆3世で、孫は4世になる。
こうした事が、広島に住んでいる人の生活にふつうにある。
だから、私は、学生時代から、写真を撮り始めて、いろいろな風景やいろいろな物をとり、写真展も、個展をはじめとしてグループ展も何度もしたが、写真展で、平和式典も原爆ドームの写真も出したことはなかった。
そうした写真を出したのは、ウクライナ戦争が始まった数年前の事である。
その中の写真は、40年前に撮影した式典の写真が多く含まれていた。
広島で生活するようになり数十年が過ぎたが、普通に広島に住んでいる人がもっている話さない体験を想うと、どうしてもこうした写真を出展する気になれなかった自分がいた。