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THE FIRST SLAM DUNK感想と若干考察Lite(シーン抽出分析)

↑の軽量版です。
なんちゃってシーン分析した部分だけをまとめました。


2023年8月10日のレイトショーで初めて観て、帰り道で全巻セットを注文し、連休の2日で読み切ってそのあと3回映画観に行った人間の感想考察まとめです。

(ヘッダーは8/30のラスト応援上映に持参した徳男うちわと炎の男うちわ)

※バスケは詳しくないです。
※考察っぽい感想を書いていますが、トータル4回しか観てない上メモ取ったりもしていないのでうろ覚えだったり抜けている点もあるかと思います。ご了承ください。
(レイトショーとかで空いてるとき誰もいない端っこの席取ってメモでも取ればよかったと後になって思った…)
また一部作品分析っぽい書き方をしてますが映画畑出身ではないので映画の分析方法は存じません。ご了承ください。
※三井の女が書いてます。

※めちゃ長いです。
※以下ネタバレしかないです。





この映画における最も重要なファクターは「めいっぱい平気なフリをする」

原作やアニメと今回の映画との間で最もギャップを感じるキャラクターといえば、おそらく誰にとっても宮城リョータなのは確実だろう。
そもそも原作では過去についてほとんど語られていないし、湘北メンバーの中ではいつも飄々として余裕があるキャラクターとして描かれている(アヤちゃん関連以外は)。

今回の映画では主人公となったリョータの過去や内面を私たちは見ることになるが、この「平気なフリをする」というワードが冒頭のソータとの1on1のシーンで提示されているからこそ、
原作・アニメの宮城リョータは「平気なフリ」をしていた状態で、今映画で見ているのはその内面である
ということをすんなり理解することができ、戸惑うことなくストーリーを追うことができたと思う。
また山王戦前夜の彩子との会話「心臓バクバクだ」「知らなかった。いつも余裕に見えてるよ」の部分について、観客側と同じように彩子=湘北の仲間たちにとってもリョータの印象と内面にギャップがあることを認識するシーンになっている。

例えばもしこの「平気なフリをする」というワードが映画でまったく出てこなかったとしたら、映画と原作・アニメとのリョータのキャラクターのギャップがなぜ生まれたのかが観客側から理解しづらく戸惑ってしまったはず。
そのため前述したとおり冒頭でこのワードを出したということが、大袈裟だがこの映画が大成功した根底にあるとさえ言えるかもしれない。

そしてさらに、この「平気なフリをする」という要素が今作のストーリーにおいても複数回登場して、かなり重要な位置を占めている。
例を挙げると:
a. 三井たち不良に屋上に呼び出されたシーン
  動作: 手をポケットに入れる
b. 山王戦試合中流川からのパスを受け取った後のシーン
  動作: 深呼吸・片手を上げる
b'. 彩子とのシーンから、山王戦以外でも試合中は心臓バクバクだが「平気なフリ」をしていることが明らかにされている(前述)
c. IH後に海岸でカオルを見つけるシーン
  動作: 手をポケットに入れる
他にもあるかも?
つまり、原作と映画のリョータのギャップについての理由づけになっていることに加えて、「平気なフリをする」ことがリョータの人生を前に進めるきっかけにもなっているということになる。
(aについては前に進むというよりむしろ後退しているように見えるけれども、これによって沖縄でのターニングポイントを迎えることを考えると周り回っては前進していると言えるのではと思う)
(三井にとってもこの喧嘩がバスケに復帰する遠因になっている←この喧嘩がなければ戻ってきたリョータに絡むこともなくひいてはバスケ部に復帰していない)

映画を含む芸術作品において、前提条件を冒頭でひとつ提示することで観客をその世界に誘う手法はよくあるが、それだけで終わらずそれがストーリーの重要なファクターにもなっているという構成が非常にテクニカルで、上手いなあ……と思った。

リョータにとって「乗り越えるべき過去を持つ存在」としてソータと三井が対になっている

もう言うまでもないけどソータと三井の存在が完全に対になっている。
もちろんリョータの心理的に最も大きな位置を占めていたのはソータだったが、そのソータの喪失を乗り越えることができたことに気付くきっかけとして、この映画では湘北メンバーの中では特に三井の存在が強調されているように感じた。

共通している要素・シーンを挙げてみると:
a. バスケットゴールがある公園での1on1
b. 同じ体勢でのディフェンスと、それをリョータが見上げるという構図
ここについてはソータの回想カットも入り、リョータが三井に兄の面影を重ねていることが観客側にも明確にわかるようになっている。
c. 1on1でのダメ出し
ソータ「背を向けるな!」「向かってこい!」
三井「(テクニックを見せてるだけじゃ勝てねえぞ)」※台詞うろ覚え
d. 公園での1on1中、友人が二人声をかけてくる
(2回目観たとき、ここまで対にしてるのか…と思わず唸った)
e. またやろう、もう一回やろうという台詞
対ソータではリョータが言う側で、対三井では三井が言う側。
f. 一度リョータの世界(≒バスケットの世界)から去っていく
g. 去る前にリョータを傷つけてしまうこと
ソータはリョータとの1on1をするという約束を破り、三井はリョータを暴行するという、どちらもリョータを傷つけてしまうという共通項がある。
ソータが約束を破ることになってしまったのは意図したものではないが、結果的にリョータを傷つけてしまったのは事実。

f'. ソータは戻ってこないが、三井は戻ってくる
ここがソータと三井の最も違うところ。

そして最後、リョータがそれぞれとの過去を乗り越えた証としての行動が、
対三井: 信頼してノールックパスを出すことができた
対ソータ: リストバンドをカオルに渡すことができた
の2つとして表現されているのではないかと思う。

ちなみに中学生三井の髪型が短髪なのは、リョータにとってソータを想起させるためというよりは初見の観客にここで出てきた少年と三井が同一人物であるということをよりわかりやすくするためではないかなと思う。

リョータとしてはたとえ三井の髪が長くても短くても、シーン自体が酷似しているためソータと重ねることはできると思うので。

一方で観客側からすると、原作アニメ履修済勢からは3Pを連続で決めている時点でこの少年が三井であるということは明らかだが、初見だと分かりにくい(冒頭に山王戦前半で三井が3P決めるシーンが入っているから、勘のいい人ならわかるかもしれない)。
そのため、高3時点での三井にビジュアルを寄せておいた方が同一人物であるということは伝わりやすいはず。そもそも映画などでは登場人物のビジュアルは途中で変化するとしても2パターン程度に収めることが多いが。
まあそのあと山王戦中にも出会いのシーンの回想カットが入るので、そこで全員が理解できるようになっているが。

また、これも推測でしかないが、その後の喧嘩のシーンでの「そのサラサラのロン毛が好きじゃねえ」とのつながりを明確にする意図もあるのかもしれないと感じた。(短髪→長髪へと変化したことをリョータが把握していると言う表現)(個人的にはセンター分け→長髪の方が気付きやすそうではとは思う)

喧嘩の時点でリョータが三井のことに気付いていたかどうかは解釈が分かれるところだと思うが、個人的には映画の構成的にリョータが気付いていないとなると出会いのシーンを入れる意味(リョータにとっての三井とソータの存在の対比)が薄まってしまうので、気付いているんじゃないかなと思うけどどうなんでしょう。

ここで考えるべきキーとなる喧嘩後のリョータの行動は2つある:
a. バッシュをダンボールに入れて封印したこと
b. 喧嘩をきっかけにバイクで暴走したこと

もし三井があのときの少年だということにリョータが気付いていなかったとしたら、三井との喧嘩については「(一度や二度因縁をつけられた程度の認識の)不良にリンチされた」という意味合いになる。
いくら家庭や部活でフラストレーションが溜まっていたとしても、これをきっかけにバイクで走り出すまで行くかどうかは少し疑問が残る。また、バスケとの関連性も薄いため、なぜバッシュを封印したのかの理由がよくわからなくなる。

もしリョータが気付いていたとしたら、この喧嘩は「一度でも兄を重ねた存在に裏切られ、傷つけられる」という意味合いに変わってくる。(裏切られるというのはリョータの主観だが)
気付いていない場合よりも数倍意味合いが重くなり、自棄になってバイクで暴走するという行動に移る理由としてもさらに納得できるのではないかなと思う。
バッシュを封印する行動についても、中学でもバスケを続けるきっかけのひとつになったであろう三井との出会いのシーンからの落差を考えると納得できるように思う。

ここまで脚本上の理由からリョータは気付いていたという説を推してきているけれども、それにしても(漫画で描かれているよりも中2三井の顔が高3三井に寄せてあるとはいえ)出会いから数年経っていて髪型も表情もまったく変わってしまっているのに気付けるのか……??とは思う。笑
逆に言うとそれくらいインパクトのある出会いだったと捉えることもできるかもしれない。

追記:映画では三井襲撃シーンがカットされているが、その理由は尺が長くなることとそのシーンのメインが三井になってしまうことに加えて、原作通りにするとリョータの反応に矛盾が生じてしまうからかもしれないと思った。
(原作読んでて、えっリョータは三井がバスケ部だったこと知らなかったんだ⁉︎と驚いたのを思い出した)
ただ、ザファ軸でもリョータが知ってる三井は中学2年生時点までのため、高校でも一回バスケ部入った上で離れている(=小暮と面識がある)というのは驚きだった可能性はあるので、完全なる矛盾ということにはならないかもしれないですが。

原作以上に強調される『1on1』がソータの存在をより絶対的なものにしている

小3リョータ「1on1やろう!」
高1リョータ「いつでも1on1やってやるよ」
沢北「1on1じゃ俺には勝てねーよ流川」

作中のシーンを追ってみても、1on1およびその比喩と捉えられるシーンがかなり多い:
a. 冒頭ソータとリョータの1on1
  …ソータの勝ち
b. 浜っ子カップでのリョータとミスマッチな相手との1on1
  …精神攻撃で相手がボールを奪いリョータが負け、試合もリョータのチームが負ける
c. 公園での中1リョータと中2三井の1on1
  …リョータによる試合放棄
d. (※リョータ以外)山王戦での流川と沢北の1on1
  …一対一では沢北が勝ったが、試合には山王が負けた
e. (※比喩)リョータと三井たち不良たちとの喧嘩
  …一対複数ではリョータが負けたが、一対一ではリョータが三井に勝っている

この結果を見てみると、ソータだけが完全に勝った状態で、それ以外はそもそも勝負がつかなかったり一対一では勝ってもチームとしては負けたりして、完全に勝っているという状況は生じていない。

ソータとの1on1では、最後にリョータの放ったレイアップが入ったか入っていないか描かれていない。これは勝ち負けよりもあのシーンでシュートを打ちにいったという「勇気あった」行為が重要なので、あえて見せていないのではと思う。また、もしここでリョータのシュートが入って(ソータに勝って)いたとしたら、越えられない存在としてのソータ像が弱くなってしまうという理由もあるかもしれない。

なお浜っ子カップのシーンでは一対一でも試合でも負けているが、相手が持ち出してきたのはソータの話題であり、相手に負けたというよりはリョータが間接的にソータの存在に勝てない(自分を思い知った)という構図になっている。(おじさんたちの台詞「ダメだな」「兄貴の代わりにはなれないさ」にも象徴されている)

だからこそソータの存在が、リョータが絶対に追いつけないものだということが以上数々の1on1のシーンによってより補強されている。

なお、映画の最初のシーンはソータとリョータの最後の1on1から始まるが、最後のシーンはアメリカでのリョータと沢北が対峙する試合が開始するところで終わり、1on1と試合という対比になっている。
また、ソータとの最後の1on1(終わり)で始まり、試合が始まるところ(始まり)で終わるという対比にもなっている。

「ドリブル練習しろよ」
ソータの最後のアドバイスがリョータの道を切り開く

まず、映画で描写されているリョータの練習シーンがことごとくドリブル。

ピックアップしてみると:
a. 神奈川に越してきて団地で練習しようとするシーンもまずドリブルから
b. 公園で三井に出会うシーンの直前でも、ゴールがあるのにシュート練習ではなくドリブルをしている
c. 沖縄に帰って決意を新たにし練習するシーンもドリブルから始まる
d. カオルの回想内で小さかったリョータが大きくなるシーンでもドリブルしている
d'. なおホームビデオでも幼いころのドリブルの練習風景を撮られている

クライマックスの山王戦後半、深津と沢北にダブルチームされるシーンでその状況を打開したのもその『ドリブル』であり、「ドリブル練習しろよ」という兄からの最後の教えがリョータを支え続け、困難を切り開く武器になったと思うとこのシーン毎回泣いてしまう……

そしてここでカットインしてくる第ゼロ感が最高すぎる。

「リョータ中心の湘北バスケ部の話」ではなく、「大切なものを失った母と息子が過去を受け入れ、今と向き合えるようになるまでの物語」だと思った

※長いです
初見時に一番印象に残ったのは、終盤の仏間での回想、幼いリョータがソータに追いつき、そして高校生になったリョータがその前を行ってカオルを抱きしめるシーンだった。
立ち止まったまま涙を流すことしかできないソータを見たら爆泣きしてしまった……

ここはそのままリョータの成長を象徴しているシーンだと感じた。
リョータが先に成長して、同じかそれ以上の傷を負っているカオルを抱きしめてあげられるようになる。これが、この映画を通して描かれているリョータの人間的成長を象徴するシーンだと思う。

ここに至るまで、リョータとカオルの二人が大切な存在を失って以降どのように日々を過ごしてきたのかを見る前に、まず二人の違いを見てみる。

まずそもそも、カオルの方が失ったものが大きい。夫と息子をほとんど立て続けと言っていいほど数年間のうちに亡くしていることが、夫(リョータたちの父親)の葬儀後のソータとリョータの姿から推測できる。

夫についてだが、遺影からおそらく海に関する仕事なのかなと感じた。(海の近くで暮らす人は海が好きであるかや仕事に関係なく浜辺で写真を撮るものなのでしょうか。私は山育ちで感覚がわからないので、これは個人的な第一印象)

また、リョータの過去回想が完全にソータに関するもののみで、父親の姿がまったくないことも気になる。ソータがリョータにとって特別な存在であったことは確かだとしても。
父親とはそこまで一緒にいる機会がなかったのかもと考えると、また沖縄の漁業の状況からも、おそらく遠洋漁業に従事していたのではと考えられる。ここから、夫もソータと同じように海の事故で突然亡くなったと推測することができる。

となると、後述する「海を見る」という行動がカオルにとってはより重いものになる。リョータにとって海はソータとほぼ同義に描かれているが、(この仮説に基けばだが)カオルにとってはソータに加え夫の存在も重なっていることになる。

また、カオルはずっと結婚指輪をつけている。映画ではリョータの父親については仏間での回想シーンを除きほぼ言及されないが、カオルにとって夫を亡くしたこととソータを亡くしたことは同じくらい重くのしかかっているということが窺える。
(リョータにとってのソータのリストバンドとカオルにとっての指輪が対になっているのかもしれない)

次に二人が夫/父親とソータを亡くした後どのように過ごしてきたか。

カオルは神奈川に引っ越してきた当初と山王戦の夏に1人で海を見ているシーンが出てくる。沖縄の訛りも消えていない。
この2点から、カオルに神奈川での友人・知り合いはほとんどおらず、アンナ(とリョータ)以外とはほとんど会話をしていないことがわかる。
5年経過しているにもかかわらず髪型も顔つきも変わっていないので、観客側からも時が止まっているようだという印象を受けるシーンである。

一方、リョータは「ソーちゃんのいない世界で、バスケだけが俺の生きる支えでした」という「母上様」への手紙の言葉通り、自身の中のソータの記憶に縋るようにバスケを続けていた。

ここで重要なのが、バスケはひとりではできないスポーツだったということだ。もっとうまくなりたいと思うならば人と関わることは必須であり、バスケに打ち込みその過程で様々な人間と接する中で、リョータは身体的にも精神的にもどんどん成長していった。

また、人と関わるということ以上に、”仲間”という存在があったことも大きかったのだろうと思う。1人では絶対勝てない相手でも、勇気を出して一歩を踏み出し、仲間を信じ、最後まで諦めなければ勝てることもあるのだということを、(すでにそれまでの経験で理解していたとしても)リョータは山王戦で身をもって実感できたのではないかなと思う。

そして同時に、バスケに打ち込んだことで「山王を倒す」というソータの夢を叶えることができた。これはつまり、リョータの知っていたソータの望んだ夢、最終目的地に自分が到達してしまったということにもなる。
第ゼロ感の歌詞にもリンクしているように思うが、ソータが教えてくれた道標、つけてくれた轍はもうなくなってしまった。

でもリョータは、もう自分にはそれが必要なくなったこと、自分の意思で未来を選ぶことができるようになったということも分かったのだと思う。
だからこそ、ソータの赤いリストバンドをカオルに渡すことができたのだろう。

これはパスの比喩でもあるように思う。
おそらく事故後沖縄に帰ってリストバンドを見つけたときや、それをつけて練習している時点ではこのリストバンドを自分以外の誰かに渡すなんてこと考えもしなかったと思う。(そもそもそのために隠していたのだし)
でもそれを、今必要な人に渡してあげる、パスしてあげられるようになったのは、過去を乗り越えたからこそのことだと思う。

そしてここは山王戦で三井にノールックパスを出すところとつながっているのではないだろうか。
過去を乗り越え、絶対に受け取ってくれると信じてパスを出す。
かつてたとえ一瞬でも兄を重ねて見た存在に暴行されたって、相当ショックを受けることだと思う。
resourceにもあったとおり、2人はそのとき本来の自分ではなかった。正直他人ならそんなの知ったことではないし行動のみで判断するところだが、彼らはそれを乗り越えて受け入れることができた。

だからこそ、あのシーンでリョータは三井が受け取ってくれると信じてノールックパスが出せたし、三井はリョータがパスを出してくれると信じてその地点まで走っていくことができ、スリーポイントを打つことができたのだと思う。

リョータがカオルにソータのリストバンドを渡すことについても、過去カオルがソータの荷物を処分したときの出来事から考えると、受け取ってもらえないものと考えるのが順当。

しかしソータとリョータの誕生日にカオルがソータのビデオを見ていたことを、カオルが本当はソータを忘れたくないということをリョータが知ったからこそ、今なら受け取ってくれるという確信を持って渡すことができたのではないかと思う。

ここでつら……となってしまうのが、リョータがビデオを見るカオルを後ろから見たとき、画面にソータしか映っていなかったこと。本当はリョータの小さい頃もちゃんと見ていて、そのかわいさに笑ったりしていたのに、タイミングが……
だからこそリョータは手紙を書き始めた最初に「生きているのが俺でごめんなさい」と書いたのではと思う。
(「あのとき釣りに行くのを止めて1on1を続けていれば」「あんな酷いことを言わなければ」という、ソータが帰ってこなかったことに対してリョータが責任を感じていることが要因として最も大きいとは思うが)

ただここでのリョータがそれまでと違ったのは、誤解だったとしても『生きている自分ではなく死んだ兄を見ている母』を受け入れて、感謝の言葉を届けることができたこと。

リョータがカオルにリストバンドを渡したあと、カオルがリョータの腕を持って揺さぶるシーンが本当に好き。resourceに全部書かれているからここでは言及しないけど、母と息子の絶妙な距離感がすごくリアルだと思う。
カオルの「背伸びた?」という言葉も、こうして真正面から向き合えるようになるまでに本当に長い時間がかかってしまったことを表していて泣きそうになる…

ちょっとずれるけどケーキを食べるシーンでリョータとカオルがアンナを介して会話していたり、リョータの書いた手紙の宛名が「母上様」だったり、それ以外にも全体通してほんっとうにディティールが細かい。笑
こういう要素が詰まっている映画とか舞台が個人的に大好きなんですけど、だからこそ感想書こうとすると考えることが多くてほんとに大変だしめちゃくちゃ長くなる……(それは自分のせい)



以上です。分析部分だけでも普通に長いですね・・・
最後までお読みくださりありがとうございました!


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