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レトルトカレーを食べながら…

夜中の2時半までおしゃべりをした反動で、11時まで寝てしまいました。

#8時間睡眠

せっかくなので、その話した内容を少しだけ。

(と思っていたけれど、途中から肩書きについてからは、ただの思考の垂れ流しにです。)

『天皇』という存在

話が飛んでいき、「核ミサイルが日本には飛んでくることはあっても、東京に落ちてくることはないと思うよ」という話題が出た。

どうしたら、そんな話になるんだよ!と思われるかもしれないが、『あぽーさん』と『ただあきさん』を含めて、3人でしゃべっていたので、話が目紛しく変わるのだ。わからないので、その点は許してほしい。

で、その理由としては、国民の象徴である天皇がいるから、というのだ。

もっと詳しく聞いてみると、天皇はイギリスでいうところのエリザベス女王。エリザベス女王がどんな立場だったかというと、国のトップであるが、政治などにはほとんど口を出さない。けれども、オリンピックなどの競技の演出などの公務を行なっている。自ら出さない威厳さを尊重しているからこそ成せる立場である。

そして世界では、武器をもたない、武力を行使しないという弱者に対して、さまざまな攻撃をするということは、非人道的であるとして、猛烈な非難を受けるようになっている。

つまり、武器をもたず、武力も行使しない弱者である天皇が、国のトップであるにもかかわらず、政治などにはほとんど口を出さないということで、世界各国が日本に核ミサイルを打ち込むことがあっても、東京に落とすことはないというのだ。

なによりも、国のトップを攻撃するということは「あなたの国とは交渉しませんよ」という意思表示になってしまうということを聞いて、「なるほど、だから世界各国はプーチンに対しては言葉のみの行動をとっているのか」と納得した。

見えないものに『価値』

そんな話が少し発展していき、シーランド公国という言葉が出てきた。世界は小国家化していくという話題からだった。

現在、国が国であるためには条件がある。モンテビデオ条約第1条には国家の資格要件となる要素として「永続的住民」、「明確な領域」、「政府」、「他国と関係を取り結ぶ能力」があるようだ。

なんか、ぼくが勉強した頃からひとつ増えているような気がするのだけど、その辺は気にしない。

それを満たした、シーランド公国とやらがあるらしい。そのシーランド公国というのは爵位を売っているらしく、Twitterで検索してみると、実際に購入しているものもいる。さらに、調べてみると代理購入サイトも存在する。

そんな『見えないもの』へ、価値づけられる社会になっていくのではないか?という。

たしかに、ブロックチェーンの技術によって、さまざまな追跡が行えるようになってきた。

実際に、暗号資産というものに価値を見出している投資家がいるものもいるのも事実だ。

でも、どうだろうか?と思う。

というのは、現在暗号資産は株のように簡単に売買することができる。『投資家がいる』と書いたのも、あくまで『投資目的』である場合が大きいと思うのだ。値段も、以下のサイトに載っているようにリアルタイムで変動していくため、NFTなどとの相性はよいが、それはあくまでNFTそのもの(目に見えないものが目に見える形になったもの)に対して、価値が見出されているのであって、目に見えないものに対して、直接的な価値は見出されていない。

『肩書き』という見えないもの

で、見えないものには『肩書き』というものもある。代表だの、会長だの、社長だの、取締役だのさまざまだが、これらもその人の実績や言動などから総合的に判断されたものが、偶然代表だとか、会長だとかの肩書きがあっただけであって、そもそもの肩書きになんぞ、なんら価値もないし、どうだっていい。

そのグループの中で、最も責任をもっている人は誰なのか?について、明確に示しておくことで、利用者に対してなんらかの安心を抱いてもらったり、健全な運営をしていくにあたって必要とされているものの、某会社の社長が贈賄することもあれば、某大学が横領することもあるし、某団体の会長が収賄することだってある。

じゃあ、全国各地のトップがなんらかの問題を起こしているかといえば、基本的にはそうじゃないし、問題なのは「そのときのその人」だ。

さまざまな物事を総合的に捉えようとして、断片的に捉えてしまっているからこそ、起こりうるのだが、めちゃくちゃ意識しなければ、ぼくだって簡単に陥るだろう。

『総合的に判断』について

国葬反対という声がある。

その声を発することについては、ぼくは何にも言わない。

でも、国葬を執り行うまでのプロセスについては、断固反対する。

なぜなら、国葬がダメなのではなくて、国葬を執り行うまでのプロセスに重大な欠陥があったから問題だからだ。国葬を行なうことのできるように法律を制定し、その法を機能させるだけの令や規則を整え(立法)、その法に基づいて国会に審議をかけ(内閣)、その法に違反していると意見を出す(司法)というプロセスが重要なのであって、内閣の判断で行なえるという判断を行った内閣総理大臣は『民主主義の制度の軽視』をしたとしか思えないのだ。

国葬そのものについて、反対だとか賛成だとかの意見を表明することは、全くもって個人の自由である。しかし、『国葬そのものの手続きについて、違法性があると言う意見を表明する権利』について、国民に与えられていないことは問題だと思う。

国民の代表である政治家が開催することを決め、国民の財布を使って行うことについては反対しないが、そもそもその法律が整っていないにも関わらず、政府が判断したからそれがルールだ!というのは、大統領であればできるかもしれないが、そうではない日本では越権しているのではないだろうか?


久しぶりに2000文字を超えた。

読んでくれた皆さま、ありがとうございます。

今日のお昼は、レトルトカレーでした。

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