イベント依存という病理

日本人はイベントへの依存が深刻である。過去の歴史の中で最大最悪のイベントは「戦争」である。オリンピック・万博、果ては流行感染症騒動や甚大自然災害に対するお祭り騒ぎ&杜撰対応に至るまで、私にはどれもこれも「戦争への下準備」にしか見えない。

2002年に某球技系国際❝イベント❞が国内・隣国で行われたとき、某●谷が大騒ぎになった。当時私の職場は、B****amura通りを抜けた先にあったので、❝イベント❞になんの興味も関心もなかった私は、駅から仕事場へ行く道すがらでその騒動に巻き込まれ、もみくちゃにされた。たださっさと仕事場へ戻って仕事を終わらせて、さっさと家に帰りたかっただけの私には、迷惑以外の何物でもなかった。以来、某●谷は事ある毎に「イベント反応性集団ヒステリーもしくは軽躁状態を体現する場」として悪名高くなった。それを遠巻きに眺めるにつけ、この国が戦争への道程を着々と進んでいることを実感している。

私は仕事と某●急ハンズへ行く以外では某●谷に近寄ることもなかったので、東京都内に住んでいた当時も、某●谷で何が起ころうが知ったことではなく、ネットニュースで集団解離状態〜軽躁状態に傾倒している群衆を観て「患者さんがいっぱいいるなぁ」くらいにしか思っていなかった。その社会現象と、当時流行していた「新型うつ」現象とは、私の中では地続きの構造を成していた。軽躁状態と寛解不能な抑うつとは表裏一体である。某●谷のスクランブル交差点を占拠して大声で某国名を絶叫している群衆を観ると、「天●陛下万歳!」と叫びながら敵戦艦に突っ込んでいくのと何ら変わらないトランス状態を感じる。トランス状態は、その果てについぞ自死を遂げるために必要な大規模な解離であり、いよいよ死なねばならぬとなったとき、背側迷走神経系が優位となり一切の生命活動を最小限に抑制し、仮死状態で痛みも感じないまま死を迎えるための準備状態である。そこには解離が介在しているので、あそこに集っている人々の一人ひとりは何ら病識がない。

私は元々群衆や徒党集団、無目的性を承知の上で寄り集まり非生産的活動に従事させられるようなイベント毎に対し、悉く不適応感を持ち続けて生きてきた。某●谷で仕事をしていたことは、今思えば大規模な解離であったと思えてならない。私自身も長らく解離の淵に沈んでいたが、漸く「正気を取り戻し」、東京を去る決断を下した。

私は、人口密度およそ21,000人/km^2の地域から4人/km^2の地域へ移住し、再度移転して今は35人/km^2の地域に住んでいる。人口密度は東京都内某区の1/600である。今住んでいる地域では、どれだけ人を寄せ集めても集団軽躁状態を形成することすらできない。私はようやく安心を得た。そういう物理対処でもしなければ、私の安心を確保することはできなかった。21,000→4という数字を見ても「なぜそんなエクストリームなことをした?」と我ながら思うも、そうでもしなければ私にとっての危機状態は回避できなかったのだ。

しかし蓋を開けてみると、別の形で戦争準備は進んでいた。地方に来てもなお、イベント依存は根強く浸透している。私は移住してしばらく事実上の「社会的引きこもり生活」を決め込んでいた。一応、細々とオンラインでできる仕事はしていたが、いっとき社会集団から完全に切り離されていた。いろいろな巡り合わせがあって、移住先でスクールカウンセラーの仕事を始めた。勤務先の学校で、そのイベント依存を再度目撃することとなった。計画的引きこもりから社会復帰を果たした私は、再度その悪しき白昼夢に直面することとなった。依存の対象は「学校行事」である。

オリンピック・万博・某競技系国際イベント、果ては災害・戦争に至るまで、どれも「美談」に回収される運命にある。地方の学校行事も同じで、「参加することには必ず何か『いいこと』が伴う」という美談的言説が初期設定化されている。如何なる学校行事も、「美談」として内的に回収できた試しが私にはない。ただ只管面倒で億劫で、苦痛以外の何物でもなかった。当然、内的に動機づけが高まる類のものではなかった。ヤル気など微塵もないのに、さもヤル気があるかのように振る舞わされること自体が苦痛であった。そして、過去に実際にそれらの学校行事に参加して「得られた生産的な何か」は、今のところ何も見当たらない。「同調圧力に只管浸され続け、それに馴化することを只管強いられた」という負の結果しか思い当たらない。それらを「美談」として回収できるのは、そこで設定されている価値基準を満たした結果「メダル」を貰えることがあらかじめ確定している者、そこから何かしらの既得権を享受できる社会的地位にある者、そして無反省という歴史観規模の長尺な解離を決め込むことができるトラウマ再生産従事者だけである。私は一人だけ違和感を感じ続けていたような気がするが、もしかしたら同じく違和感を抱えていた人が他にもいたかもしれない。しかし、私は周囲を見渡して「同志」を見つけることもできなかった。すなわち、こうした集団軽躁には「孤立」という構造もあらかじめ組み込まれているのだ。

引きこもり体質の私であっても、積極的に孤立を望むことはない。「安全ではない」とニューロセプションが判断するので、消極的に引きこもっているだけである。私は今や「カウンセラー」という、一見すると「弱った人を助ける」側に立ってしまっているが、実のところ、私の内側は今でも「安全なのかどうかが気になって仕方がない」状態に置かれており、過去と何ら変わりはない。私は自分自身を「いつでも患者さんになるギリッギリの縁に立っている存在」として定義している。私は助ける側であり助けられる側でもある。

そして「集団が安全ではない」とニューロセプションが判断を下した子どもたちは、やはり家庭や自室に引きこもっている。生き残るためには当然の成り行きである。彼らのニューロセプションの判断は、私には的確なものに見える。私の仕事は、そういう孤立に追い遣られた子どもをできるだけ孤立させないことを目的としている。何なら、私も君たちと同じなんですよね。集団側のほうが病的で、解離を以てそれに馴化できる子どものほうが「多数」である/見た目孤立はしていないように見える、というだけのことだ。ここでも再び「患者さんがいっぱいいるなぁ」と思うに至った。

私はそこそこいい歳のオトナだし、テキトーにぷらぷらしながらちまちま働いて微々たる収入を得れば、セミ引きこもり生活を実現することができる。しかし、子どもたちにそういう選択肢はない。彼らには常に「早く元気になってね」=「早く現実が全く見えなくなるくらい解離ができるようになって、いずれは戦争の最前線に立って国のために死んでね、あ、国のためじゃなくって、戦争で儲かる一部の人たちのためだけに死んでね」というメッセージが投げつけられ続けている。見ているだけで死ぬほどつらい。

地方では、行事の類は「滅多にない貴重な憂さ晴らしの機会」としてたいそう期待されている。公的な場であるはずの学校での行事すら、地域全体から注目を集めてしまう。つまり、閉鎖的構造の中に押し込められて日々鬱々としているオトナたちを楽しませるために/そういうオトナたちの嗜癖的自己愛を充足させるためだけに、子どもたちは動員される。子どもたちは只管搾取される。オトナは自覚なく子どもたちを搾取し、何の罪悪感も持っていない。私はそういう構造を見聞きする度に吐き気を催す。私がかつて感じていた、行事に対する不適応感の正体はこれだった。不適応感を体現している子どもたちがそうなる最たる契機は、これら行事の類である。

閉鎖構造の中に押し込められ、偶のイベントからどうにか自己愛をチューチューしようとするオトナは、不適応を抱えている子どもに向かってこういう常套句を吐く。

「滅多にないことなんだから参加したら?」
「参加してみたら後でいい思い出になると思うよ」
「今はつらくても頑張ったらいい経験になるよ」

あまりにも皆同じセリフを吐くので、もはや集合無意識化しているのではないかと疑いたくなる。DV加害者が酷似した常套句を吐くのと全く同じ機能を持っている。即ち、こういう常套句を吐く者に各々独自の自我はない。いつしか一方的に流し込まれた価値観が「絶対に正しい教科書」よろしく内在化しているだけである。彼らに「どうして集団である必要があるのですか?」と尋ねると、

「だっていい経験じゃないですか」
「集団でしか経験できないことあるじゃないですか」

というトートロジーしか返ってこない。駄目だコリャ。対話にすらなっていない。彼らのアタマの中身はせいぜいそんなものである。彼らは飛んでくる核弾頭に向かって竹槍で反撃しようとすることに、何の疑念も持っていない。これをメタファーだと解らないほど、頭の中では鈴が鳴っている。ちりんちりん。

私が移住先でスクールカウンセラー職に就き、最も強い目眩に見舞われたのは、教職員の中にもこういう常套句を吐く者が多数いる、という現実である。
それって、なんたら指導要領に明記されてるんですか?
否、文科省が是としていることが絶対的に正しいと本当に断言できますか?
「断言できる」と思ってるんならアホ過ぎませんか?
文科省って子どもたちをいずれ何の疑問も持たないまま戦争へ邁進するよう洗脳するつもりなんですか?
もしそうだとしたら、貴方がたはそれに何の疑問も持たないのですか?色々とツッコみたい。
「不適応を体現している子どもたちに対し、自覚もなく過剰適応を強いていますね。自覚がないから気付いていないでしょうけど、それって虐待ですよ?運動会の延長線上に戦争があることは、どのくらい理解していますか?」と婉曲にツッコんでおいた。

さて、もっと頭が痛いのは、同業者の中にもこうした「集団適応神話」に疑問を持っていない者が多数潜んでいる事態である。心理臨床業界も所詮は有毒男性性を基軸とした組織構造からいまだに脱却できていない極めて未熟な集団なので、「隠れ軽躁状態」の同業者が大量生産されていても不思議ではない。私は偶々この業界に手を染める以前から、集団病理に対して過敏なくらい敏感であっただけのことだ。しかしそういう体質に生まれていなければ、私は人生の早い段階で衝動的に自死していたであろう。今どうにか生き長らえているのは、生まれつきそういうニューロセプション機能を持っていたからである。私は自分の不適応感を歓迎し、今でも大事に育てている。今後も生きている間はイベント依存に傾倒することはないだろう。それを私は喜ばしくとらえている。