「武器よさらば」 を読んで
ひとり夏の読書月間🎐ということで、7月は「武器よさらば」「心は孤独な狩人」「金閣寺」の3冊を読もう(後者二作品は以前途中まで読んで挫折)と意気込んでいた。
しかし読むことができたのは「武器よさらば」の1冊のみ、という状況で8月に突入してしまった。
アーネスト・ヘミングウェイの「武器よさらば」。
この本を読むときには、雨が降っていてほしい。だから、いつかの日に遠い国で降っていた雨音の動画をパソコンで流しながら、「戦場に降り注いだ雨というものは、今と変わらないのだろうか」などと考えながら、コーヒー片手に、ただ静かに文字を目で追った。
作品の要約や紹介ではなく、ただ自分が感じたことを書き留めた文章なので、あらすじを丁寧に追って説明するという趣旨の文章ではない。ただ淡々と、この作品を読んでいるうちに思わず舌のうえに浮かんできた味を書き記したものです。
【武器よさらば】
アーネスト・ヘミングウェイ
(※ 作品の結末、あとがきに言及しております。結末を知りたくない方はご注意ください。)
最後の一行を読んだあとは思わず硬直して、バラバラに千切れて血の滲んだ気持ちが心のなかで浮かんだり混じったりした。こんなにも感想の出てこない小説は初めてではないか。
「絶望感」という名前で簡単にラベリングできるような、単純な感情ではない。それにしても、「あんまりだ。あんまりだよ」と、思わず口をついて出てきそうになった。
こんなものを読まされて、一体どうすればよいのか。そう思った。しかし、この感情こそヘミングウェイが共有したかったものなのだと思う。
こんなに虚しくどうしようもない人生を送った人間たちを、ヘミングウェイは戦地でやまほど見てきた。三島が陥った虚無と同じ性質の真空で真黒のふかいふかい穴のなかに、彼はひとりで静かに落ちていったんだろう。
彼にとって、拵えられた薄っぺらい希望なんてものは無いほうがマシだというくらい嘘っぱちなものなんだろう。せめてリアリティを書き残すことくらいしか、彼にできる誠実な行為はなかったのかもしれない。最後には「老人と海」に至る。そして猟銃で自殺する。そこにたどり着くまでの過程として、この作品の存在意義は分かる気がする。これはフィクションとしての小説だけれど「嘘」ではなく、ジャーナリズムとしての実録というか歴史のようなもの。
「こういうふうにして死んでいった人間がいたんだぞ」ということを、ヘミングウェイは「誰かに知ってほしい」「伝えたい」という熱意やエゴは無かったのかもしれないけれど、それでも書き残して出版することを選んだ理由や動機はきっとあるはずで。
最後には猟銃で自殺してしまうヘミングウェイ。「ヘミングウェイのドーナツ」という例え話がある。いつかの日に偶然インターネットで見つけたときは、「ヘミングウェイは外堀だけを書く。結局、中身を書くことなんてできないのだ。書くことのできない中身のために、外側をつくる。まるでドーナツの穴を作るように」という内容と、そのドーナツの穴(中心)はあくまで穴であり、どこまでも何もなくただ虚無があるだけだ、という内容だったと記憶しているが、その記事を見つけることはできなかった。以下引用。
” ヘミングウェイは言ったらしい。小説を書く作業は、ドーナツを食べるようなものだ。ドーナツで最も大切なのはその穴だが、ドーナツを食べると穴も消えてしまう。言葉は、言葉で表現できないことを表現するために、回りを埋め尽くすためだけに使われるのだと。”
足を失いかけても、命からがら逃げ出しても、やっとのことでたどり着いた楽園で子供と妻を失い、自分だけは殺されずに生きているという地獄。立ちはだかる大きな不条理の前では、小さなその場しのぎの反抗や逃避、もしくは戦闘くらいしかできず、運命という大きなものは結局動かすことはできない。「虚しさ」というものの正体。
主人公の男は、いつか救われるのだろうか。ラスコーリニコフのように、最後は救いに似た光のようなものに、指を通すことができるのだろうか。
一過性の幸せを信じた一人の人間の、絶望と虚無について書かれた史実。戦争の無意味さ、それでも戦わなくちゃいけないこと。
あまりにもぬるっと自然に戦争状態のルールが日常化し、死に慣れてゆく。異常が常態化していくとそれは常識になってしまう。登場する全員、各々が各々の重さのおもりを腰からぶら下げ、落ちないようにと慎重に、細い橋を渡るようにして生きている。その重さに耐えられずに橋から落っこちた人間を、「次は自分かもしれない」という恐怖と諦めをもってして、無表情で眺めることに傷つかなくなってしまう。人を殺すということが実は何でもないということに、気がついてしまう。
「こういう状態は間違いなく異常なのだ」という常識が無くなってしまったとき、生き残るために手放した倫理に殺されそうになるという不条理に押しつぶされてしまうようなとき、愛する人間だけがただ一縷の光だったのに、それにすら「意味など無かった」ということを神に見せつけられてしまう。
「でもそれが人生なのだ」、こんなことは決して簡単には言えない。ヘミングウェイは、そんな景色のなかにすら、何らかの美を見出していた。無残に死んだ兵隊の死体に美を見出してしまう、自分のアンビバレンスな感性に殺されてしまったのかもしれない。
"そうして、最後の瞬間に捕まってしまった。この世の中、何をしたって罰が当たるようにできているのだ。逃げられやしない!"
"こんどはキャサリンが死んでしまうかもしれない。人間とはそういうものなのだ。人間は死ぬ。死ぬとはどういうことかも、わからないうちに。知る時間も与えられないうちに。人間は偶然この世に放り出され、ルールをつげられ、最初にペースを踏み外したところを見つかったとたんに、殺されてしまう。もしくはアイモがそうだったように、何のいわれもなく殺されてしまう。もしくはリナルディのように梅毒をうつされる。けれども、結局は殺されるのだ。それはまず間違いない。のらくらしているうちに殺されてしまう。"
"第一次世界大戦以降、第二次世界大戦に至るまで、ヘミングウェイは作家として、またあるときはジャーナリストとして、数々の戦場に立っている。それを通して彼が一貫して描いたのは戦争というものが本質的に孕む悪だった。その生涯を通じて、彼が戦争の勝利の高揚を描いたことはただの一度もない。その意味で、彼は"戦争の世紀"とも言われる二十世紀の冷静な観察者であり、戦争による人間性の破壊に対する静かな告発者でありつづけた。(あとがきより)"
生きていくことと、死ぬことについて。
武器よ、さらば。
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